蜀の丞相・諸葛亮は西暦234年8月に北伐の陣中で亡くなりました。享年54。
死期をさとった諸葛亮が五丈原の陣営を見て回るシーンがあり、
「秋風は面を吹いて、冷気骨に徹るものがあった」という描写があります。
詩人・土井晩翠の「星落秋風五丈原」には
「令風霜の威もすごく」とあり、とても寒そうです。
旧暦の8月なら、今の9月頃ではないでしょうか?
そんなに寒かったのでしょうか。
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諸葛亮の命日
正史三国志には命日の記述はありませんが、三国志演義では8月23日とされています。
西暦234年の8月23日は、現在の暦に換算すると10月3日だそうです。
五丈原は陝西省宝鶏市(郝昭が守っていた陳倉城があった場所)から東に40kmほどの場所です。
ということで2017年10月3日の宝鶏市の気温を調べてみたところ、
最高気温は15℃、最低気温は11℃でした。秋らしい気温です。
このくらいの気温だと、朝晩はそろそろウールのコートが欲しいところです。
軍装の冬支度が始まっていなければちょっと寒そうですね。
五丈原は台地で、宝鶏市街より120mほど標高が高いようですし、
吹きっさらしですから、もっと寒かったことでしょう。
ましてや丞相はご病気でしたので、冷気骨に徹るという感覚はさもありなんというところです。
土井晩翠の描写は行き過ぎ……
それにしても、土井晩翠の「星落秋風五丈原」の「令風霜の威もすごく」は
若干おおげさではないでしょうかね?
気象庁の霜注意報の基準を見ると、最低気温4℃以下とあります。
宝鶏市の過去七年間の記録を見ると、10月3日の最低気温として一番低かったのは10℃、
最低気温の平均は13.1℃でした。
五丈原が台地であることや、地球温暖化が進んでいることを鑑みても、
「霜の威もすごく」ってこたぁなかったんじゃないでしょうか。
吉川英治さんの『三国志』の五丈原の巻では、
秋風五丈原の項目の最初の一文はこうなっています。
魏の兵が大勢して仔馬のごとく草原に寝ころんでいた。
一年中で一番季節のよい涼秋八月の夜を楽しんでいるのだった。
そうですよね、秋の気持ちいい季節なんです。
諸葛亮の閲兵のシーンでも、「白露は轍にこぼれ、
秋風は面を吹いて、冷気骨に徹るものがあった」とあり、
寒さの表現は露であって霜ではありません。このくらいが正解なのではないでしょうか。
寒すぎ描写の効果
私はときどき五丈原で一兵卒になって丞相の閲兵を受けています(妄想)。
丞相が通りかかるのなんか一瞬なのに、二時間も前から整列させられます。
合服のぺらぺらの軍服で二時間じっとしているのは寒いです。
こんなことをさせるんなら綿入れを支給しろ、ってぶうたれながら待っています。
大量の水っ鼻が出てきますが、ごそごそと鼻をかんだりずるずるとすすったりすると怒られるから
ビシッと立ったまま垂れ流しです。鼻水は首を伝って垂れ、胸までグショグショです。
気化熱でさらに体温を奪われます。肺炎になったらどうしてくれるんだ。ぶつぶつ。
そんな時、やっと丞相がおみえになりました。
私はそれまで丞相なんか間近に見たことはなかったんです。
四輪車に座っている丞相は、私のような若くて健康で力に溢れた人間とは違っていました。
早くお部屋に戻って暖かくして寝たほうがいいよ、って感じです。
私はじっとしているから寒いものの、かがみ跳躍二十回もすればすぐぽかぽかになります。
丞相はそうではありません。
そんな人が、この寒空に閲兵しているわけです。
その印象は寒さの記憶とともに魂に刻まれます。
その時の印象だけで、自分は以後の三十年を戦ってしまいそうな気がします。
そしてそれは寒ければ寒いほど甚だしくなることでしょう。
五丈原をドラマチックに盛り上げるには、土井晩翠の寒すぎ描写も正解かもしれません。
三国志ライター よかミカンの独り言
もしも五丈原に霜が降りていれば、私はきっと三十年後には
剣閣で泣きながら石に斬り付けているだろうと思います。
そして最期には成都城内で粉々になっているはずです。
霜の五丈原には人をそこまで連れて行ってしまう力があります。
土井晩翠の「星落秋風五丈原」は軍歌にされていますが、さもありなんという気がいたします。
ちょっと盛り上げすぎかな、という気もいたします。
「楽しみて淫せず、哀しみて傷らず」という程度で勘弁していただきたいです。
五丈原は、そんなに寒くなかったんです。
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