「いいクニ(1192)作ろう、鎌倉幕府」
日本史の年号を暗記するための、こんなゴロ合わせがありますが、
実際に鎌倉幕府が成立したのは1185年であるとされています。
今回はアンゴルモア元寇合戦記の時代、鎌倉期に起きた
主な出来事を紹介します。
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武士による日本統治の基礎、守護地頭の設置
1185年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした源頼朝は、
全国に守護と地頭を設置しました。
これは、壇ノ浦の戦いの最大の功労者であったにもかかわらず、
頼朝と対立してしまった源義経を捕まえるために設置しました。
しかし、この守護と地頭の設置には、義経を追うためだけでなく、
日本全国に鎌倉幕府の味方である御家人を配置することで、
幕府の支配力を強める、というもうひとつの目的もありました。
策士で合理的な戦略を用いてきた頼朝は、鎌倉幕府成立後も優れた政治的手腕を見せますが、
51歳という若さで亡くなってしまいます。
死因は落馬が原因とされていますが、今でもはっきりとは分かっていません。
北条政子が政治の実権を握る
(画像:北条政子Wikipedia)
頼朝の死後、2代将軍となった頼家、3代将軍となった実朝は頼朝の実子でしたが
相次いで暗殺されてしまい、ふたりの娘、大姫と三幡も若くして亡くなってしまったため、
頼朝直系の子孫は途絶えてしまいます。
3代将軍実朝が亡くなり、政治の実権を握ったのは頼朝の妻であった北条政子でした。
政子は、自分の意見をはっきりという女性で、一夫多妻制が認められていた鎌倉時代において、
夫である頼朝の浮気を決して許しませんでした。
このことから、政子はどちらかというと現代の私たちと近い感覚を持った女性であったということが
できるのかもしれません。
さて、この政子は3代将軍実朝の死後、
まだ2歳であった藤原頼経を将軍に立てて政治の実権を握りました。
そして、政子は「尼将軍」と呼ばれ、鎌倉幕府の武士たちに慕われていました。
承久の乱
1221年、朝廷の権力を復活させたいと考えていた後鳥羽上皇が承久の乱を起こします。
日本史上はじめて起こった、朝廷と武家政権による武力を使った争いはこの承久の乱でした。
後鳥羽上皇は、天皇や上皇の命令は絶対であり、誰も逆らわないと考えていたのです。
実際、後鳥羽上皇から当時の執権であった北条義時追討の院宣が発せられた時、
鎌倉幕府の武士たちは大変動揺してしまいます。
しかし、この動揺を収めたのは、
「皆の者、山よりも高く海よりも深い、頼朝公のご恩を思い出せ」
という名演説をした政子だったのです。
結果、承久の乱は鎌倉幕府が勝利、上皇側についた武士は処刑され、
後鳥羽上皇は隠岐島に流されてしまいました。
また、近年の研究では、承久の乱は討幕というよりも
義時を幕府から排除することが目的であったとする説も登場しています。
元寇 〜頼みの綱は、神風!?〜
(画像:竹竹崎季長絵詞Wikipedia)
承久の乱の勝利によって、地盤を固めた鎌倉幕府ですが、
1274年と1281年の2回に渡ってモンゴル帝国が侵略してきました。
この時代モンゴル帝国は中国大陸を支配していた大国でした。
元寇の元は、「大元大モンゴル国」からきています。
この元寇は、日本史上はじめての外国による襲撃でした。
この時、神風と呼ばれる暴雨風が起こったおかげで幕府軍は勝利したとされていますが、
暴雨風に関する記載がない文献も残っており、真偽は定かではありません。
しかし、
「想定していたよりも、日本の武士たちは強かったので、やられないうちに撤退しよう」
という内容の軍議が開かれたことが、元軍側の記述に残されています。
世界最強と言われ、ヨーロッパでも恐れられていたモンゴル帝国に
「強かった」と思わせた鎌倉時代の武士たちは、
実は世界でいちばん強い存在だったのかもしれません。
鎌倉幕府の滅亡
元寇に勝利した幕府軍ですが、外国との戦いであったため、
手柄を立てた武士たちに褒美の土地を与えることができません。
このことから、命がけで戦った武士たちの不満が募るのです。
その後、後醍醐天皇が討幕計画を企てました。
はじめは失敗しますが、楠木正成らの悪党を味方につけ、
とうとう鎌倉幕府は滅ぼされてしまったのでした。
激動の鎌倉時代は、たくさんの大きな出来事がありましたが、
実は約150年間というとても短い期間だったのです。
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