『三国志』で描かれる数々の戦では、智謀家たちによる見事な駆け引きが繰り広げられます。その駆け引きの源泉は兵法であると知り、兵法の世界にのめり込んだという人も少なくないのではないでしょうか。兵法書として最も有名なのは『孫子』だと思いますが、実は中国では『孫子』よりも有名な兵法書があります。それは、南朝宋の檀道済による『兵法三十六計』です。
『南斉書』に見える「三十六計逃げるに如かず」の語源となったその書は、正直なところ文章がそれほど上手ではなく、戦術とは言い難いものが含まれているということで人々に読まれなくなってしまった兵法書だったのですが、日常生活において使える計略が多いということで近年見直されるようになったとのこと。
実はそんな三十六計の中には、それが計略であると知ってか知らずか三国時代に活躍したあの人たちもちゃっかり用いていたものがあります。それが「屍を借りて魂を還す」の計です。
借屍還魂って何?
『兵法三十六計』は大まかに勝戦計・敵戦計・攻戦計・混戦計・併戦計・敗戦計の6つの計略に分けられ、それぞれに6つずつ細かい計略が記されている書物です。「屍を借りて魂を還す」すなわち「借屍還魂」とは、一筋縄ではいかない敵を相手取って戦う際に有効な攻戦計の1つとして挙げられている戦法です。
死んだ人や他人の大義名分を持ち出して、自分の目的を達成する計略であると言われています。この計略の名前は、ある仙人が幽体離脱している間に師匠が死んでしまったと勘違いした弟子に体を焼かれて戻れなくなった際、他の人の死体に魂を宿して復活したという話に由来しているのだそうです。
自分にゆかりのあるっぽい人を使って自分をより大きく見せる
なんとなく具体性に欠けるため、幅広い解釈がなされる「借屍還魂」ですが、戦の場でゲットした敵軍の捕虜を味方として使うということだけではなく、民衆心理を動かすことも「借屍還魂」であると捉えられることがあります。
三国時代でいえば、孫堅が『孫子』を著した孫武の子孫であると自称したり、劉備が自分は前漢景帝の末裔だと自称したりといったことが挙げられるでしょう。名字が同じだという理由で有名人を自分の先祖だと言ってみるということはよくあった話だそう。しかし、そのおかげで孫堅も劉備も人から一目置かれる存在になれたわけです。特に劉備は漢王朝の血を引く者ということで、漢王朝再興を謳って自ら皇帝になることに成功しています。
もし劉備が前漢景帝の末裔を名乗っていなかったら臣下のほとんどは付いてきてくれなかったはず。人々の心を動かしたのは、劉備の仁徳というよりも、漢王朝の末裔というネームバリューだったのではないでしょうか。
王朝末期の皇帝を傀儡化して自分のすごさをアピール
呉も蜀も自分の祖先をでっち上げてわいわいやっていたのですが、魏の曹操はそういった方法をとりませんでした。このように言うと曹操は実力によってのし上がったと思われる人も多いかもしれませんが、実は曹操も「借屍還魂」の計略を別の形で使っていたと言われています。曹操がどのように「借屍還魂」の計を使っていたのでしょうか?
曹操は後漢最後の皇帝となる献帝を自分の手元に置き、献帝を傀儡のように操って自分の思い通りに政治を動かしていました。「曹操の命令なんて聞かない!」という者も献帝の名を出されては従うしかありません。そんなわけで曹操は自ら皇帝に立ってどうこうするようなことはなく、最期の時まで献帝の威を借りて実質的に天下に君臨することに成功したというわけです。
しかし、皮肉なことに曹操が礎を築いた魏も司馬昭によって献帝と同じ憂き目を味わうことになってしまいます。因果応報と言うべきなのでしょうね。
三国志ライターchopsticksの独り言
三国時代に覇権を争っていた英傑たちはどいつもこいつも「虎の威を借る狐」だったわけです。しかし、後に「三十六計」に組み込まれるような計略を時代に先んじて用いて成功をおさめていたという点では、やはり三人とも優れた人物だったのでしょう。なりふり構わない感じがする「借屍還魂」ですが、実は現代を生き抜く上でも役に立つ計略なのかもしれませんよ。
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