北条早雲は、戦国時代のはじめに活躍した戦国武将です。しかし、織田信長や武田信玄などと比べると、少し知名度は下がるのではないでしょうか。まして、北条早雲の当時の呼び名であった伊勢新九郎という名前を知っている人は、日本史が好きな人・ある程度の知識を持っている人を除くと、かなり少ないはずです。
ゆうきまさみの歴史漫画のタイトル、「新九郎奔る」を目にしても、これが北条早雲を題材にした漫画だとピンときた人は、一体どれくらいいるのでしょうか。他の有名な戦国武将と比べると若干知名度が低い北条早雲ですが、実はとても魅力的な戦国武将だったのです。そんな彼のパーソナリティがよく分かる逸話を、いくつか紹介します。
人の心を掴むのがうまかった
北条早雲は、人の心を掴むのがうまい戦国武将でした。若いころに禅宗を学び、心を律している中で、世の中の混乱を見つめ続けていたというのも、彼の人心掌握のうまさに影響しているのでしょう。
早雲は、悪政をしていた茶々丸を倒して自らが伊豆を治めるようになったとき、領民を苦しめていた重税から解放しました。これにより、領民たちは早雲のことを慕うようになり、逆らうことはしませんでした。また、仲間に病人がでれば医者を遣わせたり、部下に看病を依頼したりしたことも、早雲の人柄の評価を高めました。
1度手にした土地を手放すことはしなかった
(画像:応仁元年(1467年)の勢力図 水色東軍、黄色西軍、黄緑両軍伯仲Wikipedia)
土地を巡るいざこざを若いときから見てきた早雲は、一度手にした土地を決して手放すようなことはしませんでした。土地を失った者たちにはお金を配当するようにし、土地を奪い返されることがないようにしていたというエピソードからも、早雲の用心深さがうかがえます。
また、戦国武将による検知といえば、豊臣秀吉による太閤検地があまりにも有名ですが、実は戦国武将で初めて検知を行ったのは、早雲でした。戦国時代の先駆けとなった早雲は、その政治的なセンスやアイデアも当時としては、先進的だったのです。
ユーモア溢れるエピソード
北条早雲は、自分だけでなく部下に対しても日常生活を厳しく律することを求めた厳格な人物ですが、わずかながら、ユーモア溢れるエピソードも残っています。それは、馬泥棒の裁判が行われたとき、犯人から「向かいの席に座られているあの方(早雲)は、国を盗んだじゃないか」と言われた早雲は、それを聞いたら笑い出してしまい、なんとその盗っ人を許してあげたのだそうです。
早雲にも、自分は国を盗んだという自覚があったのかもしれません。なぜなら、武力だけでなく、巧みな話術や戦略を使って手の中に収めた国もあったのですから。しかし、それを裁判の席で(しかも早雲本人を前にして)堂々と口にした馬泥棒も、ただ者ではないようです。
常に警戒心を持っていた
さて、早雲が並ならぬ警戒心を持ちながら日々を過ごしていたということは、早雲自身が制定したとされる北条家分国法からもうかがえます。北条家分国法の第18条には、
「すきありて宿に帰らば、廐面よりうらへまわり、四壁垣ね犬のくぐり所をふさぎこしらえさすべし。
下女つたなきものは軒を抜て焼、当座の事をあがない、後の事をしらず。
万事かくのごとく有るべきと深く心得べし。」
とあります。これは、「使用人は家の事に対し適当に済まし、何か事件があってもその場を取り繕うのに終始して問題を事前に防止する意欲のある者はほとんどいないものだ。だから人任せにしないで、最終確認は家主がやるようにするべきである。」という意味です。
戦国ライター星野まなかの独り言
この分国法に書かれた内容から、早雲がいかに几帳面で用心深い人物であったかがよく分かります。しかし、この並ならぬ警戒心の強さがあったからこそ、謀反が当たり前ともいえた戦国時代において、早雲は63歳(一説には、87歳とも)という長い人生を生きることができたのではないでしょうか。
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