甲斐の虎と称され、優れた戦術だけでなく、その善政でも知られる武田信玄は、生まれながらのサラブレッドだったのでしょうか? 信玄のように有名な戦国武将であっても、そのご先祖様のことまではあまり知られていません。この記事では、現在でも大人気の戦国武将である信玄の、ご先祖様について解説していきます。
武田信玄のルーツに迫る!ご先祖様は、清和源氏だった
「清和源氏」「桓武平氏」という言葉を聞いたことはありますでしょうか?
どちらも、多くの戦国武将の一族のルーツになっています。武田信玄が生まれた武田一族は清和源氏の流れを汲んでいます。1031年、清和源氏の惣領・源頼信が甲斐守として着任し、それ以後頼信の子孫が甲斐国巨摩郡を占拠するようになっていったのです。頼信の子である頼義、そして孫の義光はいずれも関東地方に国守として就任しています。そして、義光の次男である義清のときに土着するようになったのです。そして、義清と子の清光は荘園を成立させていき、権力を拡大させていったのです。この清光こそが甲斐源氏の祖とされており、その子どもたちが甲斐国を発祥とし、武田一族をはじめとする多くの氏族を築いていったのです。ちなみに、信玄のご先祖様が支配していた甲斐国巨摩郡は、今より1000年近く前から、名馬の産地として知られていました。このことも、信玄が優れた騎馬隊を作り上げることができた理由のひとつとなっているのです。
そもそも清和源氏、桓武平氏って?
武田信玄のルーツは清和源氏ですが、「高校の日本史の授業で清和源氏、桓武平氏について習ったはずなのに、いまひとつよく分からない…」という人もいるのではないでしょうか?清和源氏も桓武平氏も武家の棟梁であり、全国の武士たちをまとめる一族でした。両氏とも、もとは天皇家につながる、高貴な家柄です。どちらもルーツは平安時代の初期とされています。清和源氏は、清和天皇の孫である経基王が、臣下となって源姓を賜ったのがはじまりであり、桓武平氏は、桓武天皇の曾孫、高望王が、臣下となって平姓を賜ったのがはじまりです。
臣下になる、というのは、もともと天皇家の人間だった人が、姓を賜って天皇家から離れることです。今もそうですが、この時代も天皇家の人間には苗字がなかったのです。有名な例だと、平安時代に紫式部が執筆した源氏物語の主人公、光源氏が臣下になるというものがあります。また、清和源氏からは源頼朝が、桓武平氏からは平清盛がそれぞれ出ています。どちらも知らない人はいない、ビッグネームですね。
信玄は武田家19代当主だった
清和源氏の流れを汲む武田家ですが、信玄は19代当主でした。信玄の父、信虎は18代当主ということになります。では、武田家の初代当主は誰だったのでしょうか?武田家の初代当主は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した、武田信義でした。この信義から、武田家がスタートしていったのです。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
今回は、あまり知られていない、武田信玄の先祖について紹介していきました。信玄→ほとんどの人が知っている 信虎→日本史好きなら知っている 信義→ほぼ全ての人が知らない という感じだと思いますが、この信義、残されている肖像画を見ると、現代の感覚からしてもけっこうイケメンなのです。信義は親族の新田義重と親交があり、また、優れた武術の腕前を称され、源頼朝、木曽義仲と並んで東国の武士トップ3とされていたのです。そんな信義を先祖に持つ信玄は、生まれながらのサラブレッドだったのですね。近年の研究で分かってきたことですが、無名の武士とされていた北条早雲も名家出身であったりするなど、下克上のイメージが強い戦国武将も実は家柄重視だったのかもしれません。それとも、名家だったからこそ素晴らしい教育を受け、才能が花開いたのでしょうか。
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