戦国時代については、その始まりと終わりに諸説ありますが、もっとも早い終結を1568年と規定する説があります。それは、織田信長が室町将軍、足利義昭を奉じて京都に入った年なのですが、実際にはもっと早く、天下人だった人がいました。その名を三好長慶といいます。
三好長慶が天下人である理由とは?
三好長慶は天下統一をしていないのに、どうして天下人なのか?
実は戦国時代、天下とは畿内一帯を指す言葉としても使われました。鎌倉幕府にしろ、室町幕府にしても、日本の端から端まで武力平定したわけではなく京都周辺、つまり畿内一体を平定してから天皇より征夷大将軍に任じてもらい諸国の大名なり豪族なりに号令をかけてその上に君臨したのです。九州から北関東まで、日本を縦断して従わない大名を平定したのは豊臣秀吉くらいでしょう。三好氏の最大勢力は、山城、丹波、摂津、和泉、淡路、阿波、伊予、讃岐、大和、河内等々、畿内と四国に跨る十一国に及び、十分に天下人と呼べるのです。
織田信長も模倣した?三好長慶の経済センス
中世史家の天野忠幸氏によると、三好長慶の政治は後の天下人織田信長にも大きな影響を与えているそうです。それは以下のような点で信長の政治運営と類似性が見られます。
1:拠点を次々に移しては城下町を築いて家臣団を集中し万単位の兵力を保持し足軽を活用するなどで農閑期も関係なく戦争を行った。
2:国単位の一斉検地を実施せず、堺や尼崎、兵庫などの主要な港湾に勢力を持つ豪商や法華宗徒を保護した。
3:摂津、渡辺、淀、伏見など大坂から京都までの交通の要衝に拠点を持つ領主を積極的に配下に加えた。
1568年、信長は上洛を果たすと、足利義昭から近江、摂津、和泉、河内からどこか一国を与えようと言われますが、それを辞退し、大津と草津、堺に代官を置く事を望んで許されます。信長はたかだか一国の領主より、尾張清洲、美濃岐阜、近江草津、近江大津、京~堺と尾張から京に伸びる大経済圏を構築しようとしたのです。これなどは、土地より経済の大動脈に目をつけた三好長慶の先例に倣った可能性も無いとは言えないでしょう。
室町幕府の権威をあてにしない専制政治
三好長慶は、足利将軍を利用しようとした信長とは違い専制政治を志向していたようです。従来のように、足利将軍を奉じた大名がその権威を利用して天下に君臨するのと違い長慶は守護大名も任命しなければ、自身も室町幕府のポストに就かず最高権力者として裁判権や検断権を駆使しました。もしかすると、長慶は室町幕府を廃して、新しい政治体制を構築するつもりでいたのかも知れません。
三好長慶の凋落
しかし、そんな三好長慶の畿内支配にも凋落の時が訪れます。直接の原因は実弟の三好実休、嫡男の義興の死であったようで、これによって覇気を失った長慶は1558年、かつて追放した足利義輝と六角義賢の連合軍と京で交戦するもこれと和睦してしまいます。長慶は、足利義輝を奉戴して権力を維持する道を選び、管領に次ぐ相伴衆に任命されて幕府権力に取り込まれたのです。以後、三好長慶が浮上する事はなく、永禄7年(1564年)河内で43年の生涯を閉じてしまうのです。
参考:最新研究が教えてくれる!あなたの知らない戦国史
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
三好長慶は管領細川晴元に仕えていた被官(部下)の三好元長の子です。しかし、この元長は晴元のライバルであった細川高国を破って勢力を伸ばすもそれを危険視した主君の晴元に攻め滅ぼされました。長慶は、あやうく難を逃れましたが、のし上がる為に恨みを隠して晴元に近づき功績を挙げて勢力基盤を築き、やがて晴元と敵対していた畠山氏と密かに結び謀反を起こして晴元を近江に追い出し実権を握りました。その後、足利義輝を霊山城に攻めて京都を掌握しています。このように見ると、長慶もかなり波乱万丈な生き方をしていて、信長と共通した部分を見る事が出来ますね。
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