本能寺で織田信長を討った明智光秀は、それから、僅か十日で山崎の合戦で中国大がえしを果たした羽柴秀吉の軍に破れて、自身も落ち延びる途中で落ち武者狩りによって殺されました。従来の説では、山崎の戦いは西国街道の隘路を扼する天王山を巡る奪い合いから戦闘が始まり天王山を制された明智軍が主導権を奪われ敗れたとされてきました。
しかし、現在では天王山周辺での戦闘は確認できないとして、天下分け目の天王山という言葉も死語になりつつあるようです。では、明智光秀はどこで戦いどうして敗れたのでしょうか?橋場日月氏の著作、明智光秀、謀略と残虐を参考に探ってみましょう。
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明智光秀が豊臣秀吉を迎えうったのは?
通説では、明智光秀は本陣を大山崎町の下植野にある上野古墳群に置かれたとしています。理由は、この地が天王山の西麓で山崎の隘路の出口に当たるからです。確かに天王山を制する事が勝敗を決したとする考えに拠れば妥当な考えでしょう。しかし、近年、天王山を奪い合ったという事実がない事が明らかになると、ここに光秀が本陣を置いたという信憑性も薄くなっています。
明智光秀は、長岡京市の恵解山古墳に本陣を置いた!
2011年8月に長岡京市の恵解山古墳で光秀の本陣跡とみられる遺構が発見されました。南北二十六メートル、幅四から五メートル、深さ二メートルの直線状の堀跡が出土したのです。
その全長はさらに北側で行われた試掘調査によって、断片的に発見された堀跡とあわせてみると、四十九メートル、終戦直後に撮影された地形とあわせると、全体では四百メートルの長さを持ち、東西の長さも二十メートルと当時の本陣に相応しい規模を備えていました。
堀が掘られた当時は、掻き揚げの土塁もセットで作成されたと思われ、南の小泉川を天然の掘とし防衛する長大な堀と土塁が出現したのです。また大正時代制作の大日本帝国陸地測量部の周辺地図によると、東の小畑川から水濠が本陣跡に向かって伸びていて、さらに本陣跡の南にもその延長と思われる水路が残っているようです。
これらの水濠や水路を総計すると、東西一キロに及ぶ水濠と土塁が光秀本陣の南に横たわりこれを小泉川と一体化すると三キロにわたる陣地になります。光秀が本陣を置いたのはここではないか?と橋場日月氏は推測します。
中国大がえしをうけて明智光秀は野戦を挑んだ
明智光秀が防御に有利な東の勝竜寺城でもなく、御坊塚からも一歩引いた場所に本陣を敷いた理由は彼が籠城戦と言う概念を捨てて、野戦に転じた為と橋場氏は言います実は、小泉川を濠として利用した地形は、かつて織田信長が設楽原に連吾川を前に南北二キロの土塁と空堀を備えて鉄砲で武田勝頼を迎え撃って大勝した長篠の戦いに似ているのです。
明智光秀は、その長篠を再現すべく、大量の鉄砲を配備して秀吉を待つ事にします。
守戦ではなく野戦に打って出たのは鉄砲効果を最大限にする為でした。
そもそも明智軍は一万六千と羽柴軍の四万に圧倒的に劣っていました。
しかも、秀吉は毛利氏と急転直下で和睦を行い、全速力で京都に戻ってきます中国大がえしです。
織田信長を討ってから、一か月は猶予があるともくろんでいた光秀の計算は根底から崩れ去ります。
おまけに光秀はただ秀吉を撃退するだけでは全く足りません。
北の柴田勝家や、徳川家康と三方面戦にならないように、ここで羽柴軍を壊滅させ、秀吉を捕えて息の根を止める必要がありました。
こうして、せめて西国の脅威を取り去らないと光秀の謀反に賛同する味方は出現しないでしょう。
時間、兵力差、挟撃される可能性を考えた場合、光秀に守戦は有り得なかったのです。
羽柴秀吉も早期決戦を望んだが光秀の鉄砲を恐れた
早期決戦を狙っていたのは実は、秀吉も同じでした。
先に光秀を討った人間が信長の弔い合戦に勝ったとして後継者になる。
だからこそ、柴田勝家あたりに先に光秀を討たれたり、共同で光秀を追い詰めたりすると秀吉の後継者争いの発言力が大きく低下するからです。
ですので、光秀が打って出るのは秀吉にも願ったりかなったりでした。しかし、秀吉にも大きな懸念があります光秀の鉄砲隊です。
数の上で優勢な秀吉軍とはいえ、鉄砲の一斉掃射を浴びれば実質は、池田恒興、高山右近、神戸信孝、丹羽長秀のような大名の寄せ集め
ですから雲散霧消しかねません。
ただ、幸いにして、その頃、京都・奈良周辺は連日の大雨に見舞われていたのです。
【山崎の戦い敗因】降り続く雨が明智軍の鉄砲を無力化した
実は、山崎の合戦は、6月13日ではなく、6月14日になる予定であった事が、神戸信孝と秀吉の間の書状のやりとりでわかっています。
ところが、実際の合戦は13日に発生していました。これは、どういう事だったのでしょうか?
実は、合戦を前にして大雨続きだった天候が回復の兆しを見せていたというのです。
同時代の日記、兼見卿記、家忠日記、多門院日記を総合すると本能寺の変前後の天候は以下のような経過を辿りました。
六月三日・・・雨
六月六日・・・雨
六月八日・・・大雨
六月九日・・・雨
六月十一日・・大雨
六月十二日・・晴
六月十三日・・雨
六月十四日・・日中まで大雨
六月十五日・・晴
本来、羽柴秀吉が決戦の日に選んでいた六月十四日は日中まで雨でした。
日中は太陽が照っている間という意味もありますが、真昼という意味もあります。
もし、十四日に予定通り合戦を仕掛けると、真昼に天候が回復し、明智軍の強力な鉄砲が火を吹く恐れがありました。
秀吉は軍配者(気象観測で勝機を測る者)によって天候の回復を告げられ、六月十四日ではなく、急遽一日前倒しで十三日に戦いを仕掛けたのです。
六月十三日は雨であり、明智軍の鉄砲は沈黙したままでした。
鉄砲が使えない為に、明智軍は正面の陣営の歩兵を厚くしました。
それは側面の兵力を薄くする事につながり、数で圧倒する秀吉は別動隊に桂川を越えさせるなどして側面攻撃を行い、夜までに明智軍は総崩れになります。
明智光秀は近江坂本に逃れて態勢を立て直そうとする途中に土民に襲われて落命したのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
明智光秀は、本圀寺の戦いでも、金ケ崎の退き口でも、江北の一連の戦いでも装甲船で敵を鉄砲で撃ちまくり、長篠の戦いでも鉄砲の運用で
手柄を立てました。
そんな鉄砲の専門家である明智光秀が、一番最期に鉄砲に頼って失敗したのは一種の悲哀を感じます。
また、光秀が討った織田信長は雨将軍と呼ばれる程に肝心な戦で雨が降る人であり、光秀の鉄砲を封じたのが降り続く雨だったというのも
皮肉な話だと感じます。
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