今回は後藤象二郎について取り上げます。後藤象二郎といえば、幕末の大河ドラマでは坂本龍馬が建白した大政奉還を山内容堂に建白した人物としてよく見ると思います。
読者の中には明治時代の後藤象二郎を思い出すかもしれません。具体的には、日本史の教科書で明治政府の官営模範工場が三井・住友・三菱・安田・古河などに安く払い下げられたとき、後藤象二郎を経て払い下げられました。
この記事では後藤象二郎の生涯を土佐藩士時代と明治時代に分けて取り上げます。
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土佐藩士時代の後藤象二郎
後藤象二郎は土佐藩の上士として生まれました。少年期に父を失うと、吉田東洋に預けられ、武芸と学問に励みました。吉田東洋に推薦され、土佐藩で奉行を務めました。
1862年に吉田東洋が暗殺されると、奉行の職から外されたため江戸の開成所で英語を学びました。土佐藩の藩政を事実上握っていた山内容堂から信任を得ると、参与として陽動とともに公武合体派として活動します。
後藤象二郎が参与になった頃、土佐勤皇隊だった武市瑞山らを逮捕するなど尊王攘夷派の取り締まりに力を入れました。また、後藤象二郎は薩摩・長崎や上海を視察するなど海外の情勢を分析するようになりました。坂本龍馬は土佐藩を脱藩していますが、海外を視察するようになってから後藤象二郎と交流するようになったと考えられます。
1867年に薩長同盟に討幕の密勅が出されたことを知ると、大政奉還を建白しました。大政奉還により江戸幕府による政権は終わりました。なお、坂本龍馬については大政奉還直後に何者かに暗殺されました。
大政奉還と明治天皇謁見に向かうパークス一行の護衛が成果として認められ、後藤象二郎の石高は1500石になりました。明治政府から明治維新の功により賞典禄1000石が加増されました。
明治時代の後藤象二郎
後藤象二郎は大政奉還後明治政府に加わりました。明治政府では大阪府知事や参与などの要職に就きましたが、1873年の明治六年政変で征韓論争に敗れ、政府を去りました。西郷隆盛や江藤新平らと共に政府を去りましたが、後藤は板垣退助とともに言論による運動を展開します。この言論による運動は自由民権運動と呼ばれています。
後藤象二郎は自由民権運動で愛国公党という政党を立ち上げ、民撰議院設立建白書に署名しました。明治政府を去ると言論による運動を展開していましたが、後藤は政商となりました。
政商となると、政府が安く払い下げた官営模範工場や炭鉱の経営に乗り出します。後藤の経営はうまくいかず、明治政府が払い下げたものを別の商社に払い下げました。後藤が払い下げたものの中には高島炭鉱があります。高島炭鉱は後藤象二郎を経て土佐藩出身で三菱の岩崎弥太郎に払い下げられました。
政商から政党の結成に転身します。1881年、自由党の結成に関わりますが、政府に協力するようになり、大同団結運動は行き詰まりました。明治六年政変で明治政府を去っていましたが、黒田清隆内閣や松方正義内閣などで大臣を歴任することで政府に復帰しました。1894年に収賄事件が発覚し、責任をとって大臣を辞任しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は後藤象二郎について取り上げました。後藤象二郎は1896年に心臓病で亡くなりました。墓は東京都港区の青山霊園にあります。終わりに、後藤象二郎の子孫について取り上げます。長男は早くに死亡したため、次男から取り上げます。
次男は猛太郎で、ミクロネシアやマーシャル諸島などの南洋群島を日本で初めて探検した人物で知られています。探検だけでなく、積極的に事業を行っていたことでも有名です。しかし、金銭トラブルが多かったといわれています。
長女は早苗といいます。後藤象二郎と岩崎弥太郎との間で結婚を決めました。孫では川添浩史が挙げられます。港区麻生台にイタリアンレストラン・キャンディを創業しました。財界人や有名人が多く訪れます。後藤象二郎の子孫だけでなく、今後は激動の幕末を生き抜いた人物の子孫にも注目したいと思います。
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