教科書でも習う中国の宦官。
元は宮廷での重要な役職の一つでした。
その歴史は春秋時代に始まり、近代の清朝まで連綿と続いています。
ここでは宦官の歴史と役割について紹介していきます。
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宦官の始まりは役職名!?
去勢した男性をイメージする宦官ですが、もともとは王宮に仕える一般的な役職の名前でした。
中には敵国の戦争捕虜になり、刑罰によって去勢されたあとで王宮に仕えた者もいました。つまり、宦官には一般の小間使いも去勢された男性も混在していた時代があったのです。
やがて後漢の時代になると王宮に仕える男性が宦官に限定されるようになったため、
宦官=去勢手術をした男性の小間使いへと変わっていきます。
宦官は何をしていたの?
例えば、皇帝の宣言書を読み上げたり、宮廷を皇帝が移動する際の案内役、臣下が皇帝に面会をしてきたときの取り次ぎなど雑事が主体です。
現在の社長秘書に近い存在でしょうか。
そのため、政治的な話も自然に耳に入るようになり、小間使いながら政治の流れや宮中の噂なども簡単に入手できる立場にいました。
皇帝にはたくさんの妻がいましたから、子どももたくさんいます。それは権力争いの種ともなりました。
どの妻も自分の子を産んで次の皇帝にさせようと躍起になります。男子を産めば万々歳ですが、女子しか生まれなかったり、皇帝と仲良くなれないと悲惨な状態におかれました。
ほかに皇子の教育係をまかされたのも宦官でした。皇子は幼い頃から皇帝になるまで宦官と協力して権勢を強めていきます。
ただの小間使いですが、先代の皇帝が即位した経緯なども知っていることから、皇子からは頼りにされることが多かったようです。
宦官も自分が世話をした皇子が皇帝になると自分も出世できます。実は皇子の段階では皇帝の跡継ぎというだけで「皇太子」とは違います。皇太子に任命されることは、次の皇帝になる保証を得たこと意味します。
皇帝にはたくさんの子どもがいるのが当たり前だったので、皇子と呼ばれる段階では宦官も安心できなかったのです。
後漢の桓帝が宦官と手を組んだ!?
三国志のはじまりは黄巾の乱ですが、これが起こった原因は宦官による朝廷の腐敗です。
後漢の桓帝は先代を毒殺した「梁冀」が許せませんでした。梁冀の妹は桓帝の妻になるのですが、皇帝の義理の兄という立場を利用して権力を握ります。自分の意見と対立する勢力をことごとく殺し、宮廷にのさばるのです。
やがて、桓帝は宦官である「単超」と手を組み、梁冀の住まいを包囲し、クーデターを起こします。よほど梁冀が憎かったのか、桓帝は梁冀の一族を皆殺しにします。宮廷がスカスカになるほどの大人数で梁冀一族の息のかかった家臣がいかに多かったかが分かります。
梁冀一族は征伐したものの褒美をもらって権力を得たのは、宦官たちでした。あの曹操のおじいさんに当たる「曹騰」もその一人です。
宦官には養子が認められ、血縁関係はなくとも後継者を残すことができたのです。
宦官グループ十常侍とは?
次の霊帝の時代に入ると「十常侍」という宦官集団が誕生し、皇帝をも凌ぐ力を得ます。
実際には12人の宦官がいましたが、語呂が悪いので”十常侍”とされました。もちろん宦官の勢力に反対する家臣もいました。
しかし、彼らはことごとく牢に入れられてしまうのです。それぐらい宦官の勢力が強い時代でした。
やがて、将軍の「何進」が宦官勢力と対立。
十常侍たちは皇后を利用して、何進を殺害します。
これに怒ったのは袁紹です。宮中の宦官を一掃します。
いよいよ三国志の話が見えてきました。
そして、宦官の数名を救った董卓が台頭し、後漢を滅亡へと導きます。
三国志ライター上海くじらの独り言
宦官の歴史と三国志とのつながりを紹介しました。
中国では当たり前のシステムでしたが、日本では広まりませんでした。島国ゆえに異民族の「捕虜」という概念が乏しかったからかもしれません。
いずれにしろ中国の歴史で宦官が暗躍していたのは事実です。
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