呂布といえば方天画戟というほど、彼にマッチした古代中国の武器。それが方天画戟です。
またの名を「方天戟」とも言い、魏や晋でフィーバーしました。ここでは方天画戟の特徴や使い方について紹介していきます。
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三国志演義の呂布の方天画戟が最長
「戟」は古代中国におけるメジャーな武器の一つ。長い柄の先に金属製の尖った矢じりがつき、そのすぐ下に三日月状の刃が付いています。三日月状の刃は片側のみと両側の2パターンがあり、両方とも方天画戟のカテゴリーに入ります。
呂布が使っていた方天画戟は重さが12キロあると記載された書物もあり、会得するにはかなりの訓練が必要とされていました。だいたい6畳用のエアコンと同じくらいの重さです。
戟の先端は金属で柄の部分には木や竹が使われました。長いもので全長3メートルに達し、歩兵や騎兵が主に使用していました。デビューした頃、金属部分は青銅製でしたが、武器の製造技術が上がってくると鉄製へと変化しました。
方天画戟は矛や槍といった武器と違い、複雑な作りで攻撃方法も多様であったことから、マスターするには年月が必要でした。剣や矛、槍などの特徴をすべて併せた万能な武器なので、その威力は他の追随を許しません。マスターすれば、錘などの重い武器とも互角に渡り合えるパワーがありました。
また、矛や槍と併用する使い手もおり、そうした武将は相当の手練れと見ていいでしょう。こうした武将は呂布のように、戦場で一目置かれる存在でした。
現代風にいえば、トイプードルを飼って六本木ヒルズに住むような人物でしょうか。つまり、方天画戟を持って、馬に乗るだけで強さをアピールできたのです。
ヨーロッパではスイスの戟が有名
西洋の戟は、そのほとんどが斧と矛を合わせたデザインでした(ハルバード)。スイスの戟が著名で長さは2~3メートル、突くだけでなく引っ掛けたり、叩いたりして攻撃することも可能です。つまり、スイスの戟も方天画戟のように用途の広い武器だったのです。
他方でスイスの戟も方天画戟と同じように作るのにコストがかかり、先端が重いため長さが限られていたというデメリットがありました。そのため、ヨーロッパでは矛のオプションとして使われることが多く、鉄砲や銃剣が発明されると軍隊の武器としては採用されなくなります。
方天画戟の使い方は?
方天画戟は「援」、「胡」、「内」、「搪」の4つの使い方があります。まずは「援」からです。払う、回す、薙ぐが主な使い方、よく槍で見かける攻撃方法と同じです。
次に「胡」の使い方。側面で叩く、上から叩くで刃ではなく、方天画戟の平らな部分を使って攻撃します。方天画戟は重量があるので、その重さで敵を押しつぶすことができます。中国語で「胡」は外国のものという意味があり、呂布はモンゴル出身であったことから、「胡」の用法で方天画戟を振り回していた可能性が高いのです。
そして、「内」。引っ掛ける、ねじ込む、翻すといった回転を加えた攻撃方法です。体の内部に打撃を加えるので致命傷を与えることができます。
最後は「搪」です。貫く、はじく、突き上げるという防御と攻撃が一体となった使い方。この4つをマスターすれば、読者のみなさんも呂布のように強くなれるでしょう。
私見では最後の「搪」の難易度が高いと思います。理由は方天画戟が重い武器だからです。槍と違うので、相手の武器を払うには相当の腕力と動体視力が必要です。戦いでは自分ばかりが攻撃するわけではありません。相手も攻撃してきますから、攻防一体となった技を身に付けることが戦場で生き残るコツです。
三国志ライター上海くじらの独り言
方天画戟のビジュアルばかりでなく、その使い方や製造過程でのメリット、デメリットも紹介しました。
銃が発明されるとヨーロッパで戟は姿を消します。やはり、重すぎる武器はスピードという点においてマイナスとなったのでしょう。反面、剣は長い間使われ続け、近代では銃と合体して「銃剣」となりました。
こうして武器は威力だけでなく、スピードや精度が求められる時代になったのです。
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