建安13年(208年)に曹操は荊州を平定すると、すぐに呉(222年~280年)の孫権と決着をつけるために南下しました。
しかし、孫権は劉備と連合して曹操を大破しました。
有名な「赤壁の戦い」です。ところで、赤壁の戦いは風土病により撤退したという説があります。それはどのようなものでしょうか。
今回は正史『三国志』に掲載されている「赤壁の戦い 風土病撤退説」を解説しようと思います。
陳寿も採用した説
風土病撤退説は正史『三国志』にも掲載されています。曹操のことを記している『三国志』巻1・武帝紀の建安13年(208年)の12月の個所にそのことが記されています。
余談ですが「武帝」というのは曹操のことです。曹操は皇帝にはなっていませんが、死後に皇帝と同等の扱いを受けています。話が逸れたので戻します。
『三国志』によると荊州降伏後、曹操は孫権討伐のために南下するも風土病が流行して兵の多くが亡くなったことから、撤退したことが記されています。
火責めで敗れたことは一切、記されていません。火責めの計は呉の人物の伝記を読まないと出ないのです。もちろん、曹操にとって都合が悪い話ということぐらい筆者にも分かります。
負けて帰って「ゴメン、みんな。呉の火責めで負けちゃった。でも、今回は許して」と言うことは出来ませんよね。
風土病は当たり前?
実は疫病の流行は珍しくないのです。疫病の流行は、本サイトが扱う三国時代(220年~280年)だけとは限りません。
異民族侵入が多かった五胡十六国時代(304年~439年)、数年で王朝交代が起こる五代十国時代(907年~960年)、西洋の侵入が多かった清(1644年~1911年)の末期は当たり前のように疫病が多発しました。
なぜなら、上記の時代は乱世であり、人が毎日殺さていたからです。道端・川・海には死体が当たり前のようにゴロゴロ転がっている時代でした。当時は「細菌」という概念はありません。
当時は天からの怒りという宗教のような概念でした。道端の死体が邪魔だったら、普通に素手で触って処理する時代です。また、川に死体があっても平気でそこの川の魚をとって食べる時代です。
つまり、昔の人たちの体は病原菌だらけでした。
「いや、晃に言われなくてもそんな話は常識の範疇で知っているよ」
確かに読者の皆様の言う通り、「それがどうした?」と言いたくなるのも無理はありません。しかし今後、皆様が『三国志』のドラマや映画を見るにあたり頭に入れておいてもらいたいのが、上記の情報なのです。映画やドラマで病人が出るシーンが出たら、「あっ、晃が前に変なことを言っていたな」と思い出してほしいのです。
呉に蔓延していた風土病は?
それでは赤壁当時に呉に蔓延していた風土病はなんでしょうか?この当時は、インフルエンザやペストはありません。具体的な記録が『三国志』に残されていないので分かりませんが考えられることは衛生状態が悪いことから感染する腸チフスです。
腸チフス以外では、嘔吐下痢症などが考えられます。北方から来た曹操軍の兵は、呉に来るまでに汚物をかなり触ったりしたのだと考えられます。そして、その手でお互いに接触したので蔓延したのでしょう。
とにかく、病気は恐ろしいですね。
三国志ライター 晃の独り言
赤壁で大量の死者を出した曹操は撤退になりました。この撤退の時もかなり労力を使い兵を消耗しました。命からがら逃げ帰った曹操はポツリとつぶやきました。
「郭嘉が生きていたら、こんなことにはならなかったのに・・・・・・」
郭嘉は荊州征伐前に亡くなった曹操の優秀な参謀でした。
よっぽど頼りにしていたのでしょうね。彼が生きていたら、歴史も変わっていたかもしれません。
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