于禁の死因を考察!後世の史家が曹丕を貶めるために創作されたから評価が低い?

2019年6月29日


 

 

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戦え于禁

 

于禁(うきん)(うきん)は()(220年~265年)の将軍です。活躍時期は後漢(ごかん)(25年~220年)が多いので、後漢の将軍が正しいと思います。この于禁の最期は、あまり良くない結末で知られています。

 

今回は正史『三国志』における于禁の死因について考察します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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于禁の死因1 関羽討伐失敗

はじめてのプロ野球 関羽

 

建安24年(219年)に荊州(けいしゅう)に駐屯していた関羽(かんう)は、魏の曹仁(そうじん)に攻撃を仕掛けました。曹仁の城はあっという間に包囲されてしまいます。

 

ホウ徳(龐徳)

 

この時に援軍として派遣されたのが于禁と龐徳(ほうとく)です。しかし、出陣時期が悪かったのです。

 

ホウ徳(龐徳)

 

なんと台風が来て于禁と龐徳の陣は流されてしまいます。「なんて日だ!!」と2人はバイきんぐのネタを言って流されました。

 

ホウ徳(龐徳)

 

まあ、冗談はこの辺にしておきますが結局、この戦いで捕縛された龐徳は自分から死を選びます。

 

于禁と兵士

 

一方、于禁は死を選ばずに荊州の獄に繋がれました。于禁は今まで成功を重ねて出世を果たした人物でした。今回の失敗は台風のせいとはいえ、彼の人生に打撃を与えることになります。

 

曹操、ホウ徳、于禁

 

この話を聞いて驚いたのは曹操でした。「私と于禁は30年以上も付き合いがあって分かっているはずだった。しかし于禁は龐徳にも及ばないとは思わなかった」と曹操は嘆きました。

 

朱然によって捕まる関羽

 

間もなく、関羽は曹操と秘密裏に同盟を結んだ孫権(そんけん)から攻撃されて敗北しました。その時に于禁は救出されました。しかし、魏に送られることはなく呉(222年~280年)に送られました。

 

 

 



于禁の死因2 虞翻の執拗な馬騰

鮑信と于禁

 

こうして呉に送られた于禁でした。もちろん、于禁は捕虜です。

 

海上での戦いの孫権

 

ところが、孫権は以前から于禁の名前を知っていたので、于禁を捕虜として扱いませんでした。賓客(ひんかく)として特別待遇してあげました。ところが、これに異議を唱えたのが虞翻(ぐほん)でした。

 

虞翻は孫権配下の変わり者で有名です。孫権に平気な顔で反抗して最後はベトナム方面まで流刑にされた人です。さて、虞翻は孫権が于禁を大切にあつかう意味が理解出来ません。ある日、孫権が于禁と一緒に騎馬で外出した時に途中で虞翻に出会います。

 

虞翻は「お前は捕虜の身でありながら、孫権様と一緒にいるとはどういうことだ!」と持っていたムチで于禁を叩こうとします。孫権が止めたので、この暴力事件は未遂に終わりました。またある時は、孫権が于禁を宴会に招待しました。

 

その時、于禁は故郷のことを思い出して涙を流しました。

それを見た虞翻は「泣きまねして、釈放してもらおうとしている奴がいるぞ!」と罵声を浴びせました。

 

虞翻って・・・・・・

 

腐れ儒者気質な孔融

 

学者のレベルは孔融(こうゆう)と同格らしいですけど・・・・・・于禁を慰めようとした孫権は、すごい不愉快だったそうです。後に于禁を魏に返還することになった時も虞翻は孫権にこんな事を言いました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)

 

「于禁は捕虜になって死にきれなかった男ですよ。そんな男を送り返しても意味無いですよ。むしろ、于禁を斬ってから二心ある連中の見せしめにしましょう」

暴論ですね。于禁は反乱を起こしたわけでもないのに、なぜ二心ある連中の見せしめなのか意味不明です。

 

もちろん、こんな暴論に孫権は耳を貸しません。于禁を魏に返還することに決めます。帰る時に虞翻は于禁に対して「この俺の事を忘れるな」と言っておきました。なお、于禁は魏に帰っても虞翻のことを忘れませんでした。

 

むしろ、「立派な人物だった」と称賛していたようです。于禁も器が大きいです。

 

 

于禁の死因3 曹丕による陰湿イジメ

眠る于禁

 

魏に帰ってきた于禁は普通に将軍の地位に戻されました。

 

死期を悟る曹操

 

すでに曹操は亡くなり、後漢は滅亡して魏が建国されていました。

 

皇帝に就任した曹丕

 

新しい皇帝は曹操の息子の曹丕(そうふ)です。ある日のこと、于禁は曹丕から曹操の墓参りを言われました。言われた通りに行ってみると、そこには驚きの光景がありました。

 

于禁を虐める曹丕

 

曹操の墓には于禁が投降するシーンが描かれていたのです。

 

曹操には服従しているが内心キレている張繍

 

曹丕の得意技「陰湿イジメ」です。張繍(ちょうしゅう)も自殺に追い込むほどの必殺技です。絵を見た于禁は恥ずかしさから、病気になり間もなく亡くなりました。北宋(ほくそう)(960年~1127年)の政治家であり歴史家でもある司馬光(しばこう)は、曹丕の行いを「君主の行うことではない」と評価しています。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が于禁の死因についての記事でした。筆者は最後に書いた于禁の直接の死因である曹操の墓の絵については、疑問があります。近年発掘された曹操の墓には、そのような絵があったという報告は今のところ無いのです。(筆者が調べた限り)

 

曹丕にビビって意見を言えない家臣達

 

もちろん、1800年以上昔の話なので戦乱で無くなったという考えもあります。もしかしたら、後世の史家が于禁や曹丕を貶めるために創作した話かもしれないのです。今後の研究に期待したいです。

 

関連記事:宛城の戦いで曹操に称賛された于禁という武将の性格を知ってみよう

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魏のマイナー武将列伝

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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