郭嘉(かくか)。人材コレクター・曹操(そうそう)が最も愛したと言っても過言ではない人物です。
曹操が献帝を迎え、張繍や呂布と争っていた197年頃に、荀彧(じゅんいく)の推挙により(演義では程昱も関わっています)27歳で曹操陣営に加わりました。
この記事の目次
曹操陣営に加わる前の郭嘉は何をしていたの?
郭嘉は荀彧(じゅんいく)と同郷の頴川出身で、若い頃から優秀との評判でしたが、20歳前後で世間との関わりを絶ち、密かに英傑たちとのみ交流を持ったと伝わっています。
曹操の元へ来る前には袁紹(えんしょう)の元を訪れています(当時の情勢から見てまず袁紹に、というのはごく当たり前の事でした)。しかし袁紹の器量に失望し、同郷の郭図や辛評に「あの殿様は駄目だ」と袁紹の欠点を伝えて去ったそうです。
郭嘉が曹操陣営に加わるきっかけ
ちょうどその頃、曹操は軍略について頼りにしていた戯志才という人物を亡くした曹操は、誰か代わりになる人材はいないかと荀彧に相談しました。そこで荀彧が推挙したのが郭嘉でした。
曹操と郭嘉は天下について議論し、お互い大いに満足し郭嘉は幕僚に加わります。
郭嘉は次第に曹操を支える重臣
軍祭酒(曹操軍の属官の筆頭格)に抜擢され、優れた洞察力を駆使して曹操を大いに支える重臣となっていくのです。
郭嘉はどんな性格だったの?
ちなみにあまり清廉な人物とは言い難かったようで、同僚の陳群からしばしば素行を咎められています。この素行の悪さがどんなものであったのか詳細は不明です。しかし曹操から荀彧に宛てた手紙では「中庸(過不足なく偏りがない、という意味)」という言葉で郭嘉の人格を表しています。真面目すぎず、潔癖すぎず、たまにはハメをはずし、それでも我を忘れない…
とてもバランス感覚に長け、飄々とした人物だったのでしょうね。
袁紹の十敗、曹操の十勝
先にも少し書きましたが、この頃は天下第一の人物といえば袁紹でした。曹操といえども袁紹討伐には尻込みするような状態です。
これを郭嘉に相談すると、「道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武」という10の項目を挙げ「袁紹の十敗、曹操の十勝」を説きました。
そして袁紹が北方へ目を向けている今のうちに、呂布を討つべしと進言します。
郭嘉の功績
この後の呂布討伐や、情勢定まらない中原での袁術、劉備、孫策、劉表の動きについても郭嘉は見事な見解を示し曹操を支えます。また袁紹没後の後継者争いの行方も見事に言い当て、袁譚との折衝や冀州平定にも功績を挙げました。
袁紹の後継者・袁尚と袁煕および2名が逃げ込んだ烏桓族征伐を曹操が決定した際は、「兵は神速を貴ぶ」と軽騎兵だけの進軍を献策。曹操はこれを採用し烏桓族征伐を成功させました。
郭嘉の早死、あまりにも短い一生で曹操は悲しむ
こうして数々の功績を挙げた郭嘉でしたが、北方からの帰途で発病、そのまま帰らぬ人となりました。享年38。
曹操はこの頃52歳。荀彧45歳、程昱65歳、賈詡59歳、董昭51歳、鍾繇57歳という曹操陣営でとびぬけて若かった郭嘉に曹操は後事を託そうと考えていたようで、その死をとても嘆き悲しみました。
後日曹操自身が振り返ったように、郭嘉が生きて従軍していれば、赤壁の戦いで勝ったのはもしかして…なんて想像してしまいます。