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【激動の太史慈の生涯】死亡する時は皇帝になりたかった!?

2019年11月9日


 

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太史慈

 

太史慈(たいしじ)は呉(222年~280年)の武将です。呉の建国前には亡くなっているので、正確には後漢(25年~220年)末期に武将です。

 

一騎打ちをする太史慈と孫策

 

さて、太史慈と言えば孫策(そんさく)と一騎打ちをしたり、合肥の戦いで張遼の計略にかかって落命するなど豪傑としての印象が多い武将です。ところで史実の彼はどんな人物だったのでしょうか?今回は正史『三国志』を中心に太史慈の生涯について語ってみようと思います。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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役人をペテンにかける太史慈

太史慈

 

太史慈は東萊郡の出身でありそこで役人をしていました。中平3年(186年)、太史慈が21歳の時に東萊郡と青州でケンカが起きて話し合いでも解決出来なくなります。仕方ないので洛陽に先に上奏文を持っていった方が有利になるという勝負をします。どう考えても筋の通った上奏文を提出した方が勝ちのはずです・・・・・・

 

突っ込んでも仕方ないので先に進みます。この時、東萊郡から太史慈が選ばれます。太史慈は昼夜兼行で洛陽を目指しました。やがて洛陽に到着した太史慈ですが、なんということでしょう!先に青洲の役人が到着していたのです。

 

「やばい」と感じた太史慈ですが、あることを思いつきます。太史慈は役人に近付くと、いかにも朝廷の役人であるかのように振る舞いました。

「青洲のお役人様でしょうか?」

 

太史慈のことを知らない役人は、「そうです」と普通に応対します。太史慈はさらに上奏文の誤・脱字のチェックをしてよいか尋ねます。役人は疑うこともなく太史慈に差し出しました。次の瞬間、太史慈は上奏文を小刀で切り裂いてしまいました。

 

太史慈

 

役人は、「何をする!」と叫びましたが上奏文はすでに紙切れにされたあとでした。太史慈はどこ吹く風であり、「上奏文を届けれなかったあんたも、届けることに遅れた俺も罪人!2人仲良く逃げようじゃないか」と逃亡を促す始末。

 

逃走する太史慈

 

役人は仕方なく逃亡しましたが、太史慈は逃げるどころか自分が持ってきた上奏文を朝廷に持っていきます。結局、朝廷への訴えは東萊郡の言い分が通りましたが、役人をペテンにかけた話が青州に伝わり太史慈は故郷に帰れなくなりました。やむを得ず太史慈は遼東に身を隠します。

 

期日以内に戻ってくる

袁術と劉繇

 

時は流れて太史慈は遼東を離れて、揚州刺史の劉繇のもとへと身を寄せました。彼は太史慈と同郡の出身でした。周囲の人は太史慈を推薦しましたが劉繇は、「太史慈を使ったら許劭に笑われないだろうか?」と心配しました。許劭は後漢末期の人物評論家です。劉繇は世間体を気にする人物でした。

 

呉の勢力を率いる孫策

 

また太史慈も劉繇の性格を知っていたのか、すぐに立ち去るつもりでした。ところが興平2年(195年)に袁術からの命令を受けた孫策が攻めてきました。この時に太史慈は劉繇配下として出陣。この時、孫策は韓当・宋謙・黄蓋といった猛将を連れていましたが、太史慈は一騎だけで孫策に向かっていきました。

 

小粒群雄太史慈が孫策に出会うまでの太史慈と孫策

 

孫策も負けじと太史慈と正面から激突して太史慈の馬を突き、彼の戟を奪いました。太史慈も孫策の兜を奪いました。両名とも一騎討ちでは互角の勝負だったのです。

 

しかし、劉繇はすぐに孫策に敗北して太史慈も捕虜となります。太史慈は各地に散った劉繇配下の兵を集めてくることを孫策に約束しました。孫策の側近は「逃げる口実だからやめてください」と言います。だが孫策は「太史慈は私以外、誰と組むのだ?」と自信満々。

 

太史慈

 

また太史慈も「60日以上もかからないで戻れると思います」と言いました。こうして解放された太史慈でしたが、約束通り60日以内に兵を集めて戻ってきたのでした。

 

ミステリー 太史慈の死

呉の小覇王・孫策

 

孫策に仕えることになった太史慈は、孫家の宿敵である劉表の対応に当たることになりました。劉表の従子(おい)の劉磐は豪傑であり孫策の領土に侵入しては荒らしていました。

 

豪傑には豪傑です。孫策は太史慈を派遣して統治に当たらせました。太史慈の統治能力と軍の指揮系統の前に劉磐は立ち向かうことが出来なかったらしく、侵入は途絶えたとのこでした。孫策の死後、太史慈は孫権に仕えますが建安11年(206年)に41歳の若さでこの世を去りました。

 

太史慈の死に関しては奇怪な話が残されています。

 

歴史書をつくる裴松之

 

裴松之が注として持ってきた『呉書』という史料によると、彼は亡くなる前に「男として生まれた以上は七尺の剣を帯びて、皇帝の階段を昇りたかったのに、ここで死ぬのか?」と言ったようです。

 

献帝

 

当時は後漢の献帝がまだ存命しています。亡くなる前の発言とはいえ、太史慈の発言は明らかに後漢を否定しています。ちなみに孫権はびっくりしたり怒ることもなく、逆に太史慈の死を悲しんでいたそうです。

 

これはどういう意味でしょうか?永遠に解明出来ない謎かもしれません。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が太史慈の生涯についての解説でした。筆者が初めて太史慈の列伝に目を通した時にびっくりしたことがありました。

 

彼が上奏文を届けるも青州の役人に先を越された時に筆者は、「自分だったら、『ちょっと見せてください』と言って奪うだろうな・・・・・・」と考えました。読み進めると全く同じことが書いてあったので驚きました。

 

「ウソつくなよ!」と思うかもしれませんけどネタとかではなく、マジの話です。読んでいた筆者がびっくりしたくらいです。太史慈と筆者は思考回路が一緒なのですね・・・・・・

 

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※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。

太史慈が好きという人はコメントをドンドン送ってください!

 

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呉の武将

 

 

 

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