関羽で欠かせない逸話は……それこそたくさん、山のようにありますが、印象深い逸話の一つに「囲碁をしながら手術を受ける」という場面がありますね。しかしこの毒矢の手術シーンは良くある三国志演義での創作エピソードの一つ、しかし全てが創作という訳ではありません。
そこで今回はこの毒矢エピソードに関して、正史、三国志演義を踏まえながら説明していきましょう。
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三国志演義の毒矢エピソード
まず三国志演義の毒矢エピソードを見ていきましょう。三国志演義では毒矢を受けたという関羽の噂を聞き、華佗の方から関羽の治療に訪れます。華佗は麻酔をすることを提案しますが、関羽はそれを不要と断り、お酒を飲みながら馬良と碁を打ち、華佗はその間に肉を切り骨を削るという外科手術によって毒を取り除きました。
三国志演義ベースの横山三国志ではこの際に華佗は関羽の豪胆さに驚き、関羽は華佗の名医っぷりに驚くという「名医名患者」のシーンがあり、とても良い読後感が味わえますので見たことがないという人がいましたらぜひ!そんな宣伝はさておき、三国志演義では関羽の毒矢治療は華佗によって行われたとなります。
正史の毒矢エピソード
さて、正史の三国志ではどうなっているかと言うと。まず前提としまして華佗がこの毒矢エピソードの時期よりも前、208年により曹操によって処刑されています。
また三国志演義では毒矢は腕に当たっていますが、ここがもう少し詳しくなっていて、矢傷は癒えているのに骨が痛むように感じるということで医者が呼ばれ、腕の切開手術が行われます。
この際に関羽は会食を行い、手術中にも関わらず談笑していたとされています。この「医者」というのはもちろん蘇った華佗などではなく、名も残っていない医者です。三国志演義ではその医者を華佗としたのですね。
華佗と関羽は顔見知りの可能性?
この華佗という人物、大変な名医であることが有名で、その有名さから起用されたとも思われますが、実は忘れてはいけないのが華佗の出身地は徐州ということ。そう、劉備たちがまだ土地を持たない際に身を寄せていたあの徐州です。
そして華佗は陳珪の息子を治療したことから彼に推挙されたこともあるので、もしかしたら関羽とも顔を合わせたことがある可能性も否定できません。これは正史三国志、三国志演義両方で示唆されてはいないことですが、その人物の出身や経歴を追うとそういう可能性が見えてとても面白くなる瞬間です。華佗と関羽に限らず、色々な武将たちの出身を追うと思いもよらない所でこんな楽しみ方ができますよ。
華佗と彼が抱えていた不満
さて少し華佗の話をしましょう。こちらは正史の華佗が抱えていた不満です。
名医華佗は曹操によって招かれ、お抱え医師となりました。しかし華佗はこの地位に不満でした。それは華佗の扱いというのはあくまで医師であり、文人や官僚のような待遇は受けられませんでした。華佗はこれに不満を持ち、曹操の下を離れることになります。
現代の感覚で考えるとお抱え医師というのはかなりの待遇のようですが、当時の医者は社会的地位が低かったようです。これを踏まえて三国志演義では華佗を「名医」としてクローズアップ、しかも金銭や地位に捕らわれない人物として描いたのかもしれませんね。
三国志ライター センのひとりごと
今回は関羽の毒矢エピソードに付いて、そして華佗についても少し述べてみました。これは筆者の個人的な思い出ですが、三国志演義を始めてみた時に馬良と囲碁をする関羽を見て、凄いとかではなく「こんな状況で囲碁に付き合わせられる馬良大変だな……」と思ったものです。
関羽の豪胆さは分かりますが、会談を開かれても諸将は気まずいし医師も集中できないんじゃ……なんて思ってしまいますね。ちょっとツッコミばかりの記事になってしまいましたが関羽の毒矢エピソード、見直してみると色々気付く所があって面白いので、皆さんももう一度見返してみて下さいね。
参考文献:蜀書関羽伝 魏書ホウ徳伝 華佗伝 後漢書
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