「麒麟がくる」で話題沸騰中の戦国時代。その時代には輝かしい歴史を残した英雄から深慮遠謀を持って時代を裏から操った黒幕まで、様々な人物がいました。
HMRではそんな戦国時代に生きた歴史上の人物の中から、かなりトホホでアレげな人々をご紹介。第一回目に取り上げる人物は『細川政元』です。
この記事の目次
細川政元ってどんな人?
細川政元は室町時代末期から戦国時代にかけて活動した武将で、戦国時代開幕のきっかけを作ったとされている人物です。
細川政元(1466年~1507年)は、室町時代に起こった内乱である「応仁の乱」(1467年~1478年)の東軍総大将を勤めた細川勝元の嫡子として、文政元年(1466年)に誕生、陽明を「聡明丸」と言い、その名の通り聡明な子どもして知られていました。文明5年(1473年)父である勝元がその臨終に際して、「聡明丸がいれば細川家は安泰だ」の言い残しており、息子聡明丸を高く評価していたことが分かります。
父の死後、嫡子であった政元はその家督を継ぎ、応仁の乱が収束したのち、室町幕府に対して反抗的であった六角行高の討伐を決意した第9代将軍、足利義尚に協力、出陣の準備を進めますが、長享3年(1489年)に足利義尚が出征先の近江の国で病没してしまいます。将軍の死後、その後継者をめぐる問題が起こります。政元はこの後継者問題に対し、義尚の従兄弟に当たり、その当時は出家していた禅僧の清晃(後の足利義澄)を推挙しますが、義尚の母親であった日野富子や対抗勢力であった畠山政長が後押しする足利義材(後の義稙)が第10代将軍に就任することになります。これを気に政元は幕府と距離を置くようになり、幕府内では義材の父である足利義視と畠山長政が実権を握るようになります。
明応2年(1493年)、将軍足利義視と畠山政長が河内国へ出兵した隙をついて、京都に残留していた細川政元はクーデターを決行し、以前自分が推挙した清晃を第11代将軍として擁立。このクーデターは後に「明応の政変」として知られるようになります。やがて政元は政敵であった畠山氏を追い落として将軍を自らの傀儡とすることで、事実上政権のすべてを掌握するに至ります。将軍と同等の権力を持つに至った細川政元は「半将軍」と呼ばれるようになりました。
有能な細川政元の意外すぎる趣味
機会を伺う聡明さと、クーデターを実行して権力を掌握する行動力を持ち合わせた、一代の傑物とも呼べる細川政元ですが、実は彼には将軍や権力者などよりも、ずっとなりたいと思っていたものがありました。彼が夢見続けたもの、それはなんと。
「天狗」
だったのです!!
細川政元に関して記された様々な書物・歴史的文献に、政元のさまざまな奇妙な行いについての記述を見ることができます。
例えば、政元は「飯綱の法」や「愛宕の法」と呼ばれる術を使ったという記録があります。「飯綱」とは別名を「管狐」とも呼ばれる憑き物の一種で、これを使役して予言をしたり、敵に取り憑かせて病にするといった妖術が「飯綱の法術」と呼ばれていました。「愛宕の法」は天狗の呪力を使う秘法とされています。また、政元は山伏の修行を好み、陀羅尼という仏教の呪文を唱えたりもしました。
政元は天狗のように空を飛ぶことに憧れていたらしく、天狗と縁のある修験道の聖地、鞍馬山に籠もって山伏に指導を受け、修行に没頭したとも言われています。自分が後見人となり、後に将軍に擁立した清晃が元服を迎えた時には、その後見人として元服の儀式に出席しますが、清晃に成人の証でもある烏帽子を被せる儀式で、自分が烏帽子を被ることを嫌がって駄々をこね、結局儀式自体が一週間も延期されるという騒ぎを起こしています。
政元は生涯妻帯者とはならず、実子を残すことがありませんでしたが、これも修験道に没頭するあまりの信念によって女性を遠ざけたことが原因とされています。幕府の実権を握る権力者に上り詰めながら、修験道に没頭し天狗になることを夢見た細川政元。いったいどうしてこんなことに?
細川政元の変人っぷりの原因は幼少期にある?
妖術の呪文を唱えたり、天狗のように飛ぶことに憧れ、武家の嗜みでもある烏帽子を嫌がる……これではまるで子どもです。細川政元がそのような「変人」に育ってしまった原因は、一体どこにあるのでしょうか?
その謎を解き明かす鍵は、彼の幼少期の体験にありそうです。
細川政元が生まれたのは1466年のことですが、彼が父親の死を受け、その家督を継いだのは1473年のこと。わずか8歳の出来事です。以来、彼は幕府内の権力闘争に巻き込まれ、一時は拉致・幽閉の憂き目を味わっています。若干18歳で対立勢力と単独で和睦を結ぶなど、早いうちからその政治的能力を発揮したこともありました。
幼い頃から政治闘争の場に身を起き翻弄されたことで、元々聡明であった政元が政治能力に開花したことは容易に想像できます。しかし、そのことを裏返せば、細川政元はその幼少期において、子供らしい健やかな過ごし方ができなかったことも意味します。若干8歳で細川家を背負って立つ運命にあった政元少年。彼はおそらく幼少期の楽しみを禁じられる生活を経験しているに違いありません。
大胆仮説:幼少期の禁欲的な生活がこじれ、細川政元はオタクになった!?
ところで皆さんはTwitterなど、ネット上でこんな議論が交わされたことがあるのはご存知でしょうか?
『子どもの頃マンガ・アニメ・ゲームを禁止されると、大人になって重度のオタクになる』
実際、それを証明する客観的な証拠はなく、結果的にその真偽は定かではありませんが、大人になってから重度のオタクになった人の多くが、子どもの頃にマンガやアニメ等を禁止された経験があることを語っています。
ここで細川政元の幼少期を振り返ってみましょう。彼は8歳で家督を継いで後、子供らしい生活とは無縁の政治闘争に身を置いています。当然、子供らしい娯楽などの楽しみなどない生活だったことは、想像に難くありません。結果的に、彼は「マンガアニメを禁じられた子ども」のような成長期を経て、やがて大人になると、その経験がこじれて重度のオタクになった……そう考えられないでしょうか?
いいや、そうにちがいない!!(断言
HMR隊長は「細川政元オタク説」を強く主張するものであります!!
細川政元の推しキャラはあの悲劇の英雄だった!!
果たして、なぜ細川政元は天狗を夢見て修験道に励む「天狗オタク」になったのか?この謎を紐解くヒントになりそうな場所があります。それは政元が修験道の修行に励んだという場所……鞍馬山です。
蔵馬山には鞍馬寺というお寺があります。
ここまで言えば、歴史に詳しい方ならピンと来たかもしれません。鞍馬山と修験道、と来れば歴史上のある悲劇の主人公に結びつきます。それは……源義経です!! 源義経には11歳の時鞍馬寺に預けられた経歴があります。民間伝承によれば、この時義経は鞍馬山の天狗から武芸を学んだとされ、後「一ノ谷の戦い」における『鵯越の逆落とし』や「壇ノ浦の戦い」における『八艘飛び』に結びついたと言われています。
南北朝時代から室町時代初期にかけて、源義経やその主従一党の活躍を描いた軍記物語「義経記」が成立しています。家督を継ぐ前の幼い政元が、この「義経記」や源氏の歴史を記した歴史書「吾妻鏡」を読み、源義経を知って憧れを抱いたとしても、決して不思議ではないでしょう。しかし彼はその幼い頃の思いを抱えたまま、政治と闘争の世界に関わって行かざるをえなかったのです。
大人になって存分に権力を振るえる身分となった時、政元が幼い日の憧れを実現しようとしたとしても、誰にそれを止めることができたでしょうか? いいや、誰にもできません。(反語)
修験道にのめり込み過ぎた結果の末路
修験道にのめり込み過ぎた細川政元は、しばしば出奔し、姿を消してしまうことがありました。将軍自らが、修行に励む政元を説得して連れ戻したこともあったと言われます。挙げ句、政元はもっと本格的に修行するため遠く奥州の地へ赴こうとおし、家臣に止められるという騒動まで起こしました。
女人禁制の修験道の教えを守り、生涯子を持つことのなかった政元は、3人の養子を持ちましたが。それは後に後継者争いの火種となります。結局、政元自身がこの後継者争いに巻き込まれ、永正4年(1507年)に暗殺されてしまいます。それは名門であった細川家の凋落を招く原因となり、その後の戦国時代のきっかけのひとつともなったのです。
「半将軍」と呼ばれるまでの権力を手中にしつつ、憧れ続けた「天狗」にはなれなかった細川政元。その魂は死後、望みを叶えられたのでしょうか?
HMR隊長の独り言
子どもの頃、親にマンガを禁止され、隠れるようにSF小説を貪るように読みまくってオタクになったHMR隊長には、細川政元が天狗に憧れた気持ちが手にとるようにわかる気がします。
HMRでは、今後も戦国時代のトンデモない人物にスポットを当て、皆様に紹介していく予定です。どうぞご期待ください。
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