邪馬台国と卑弥呼と言えば古代史では例外的に人気があるジャンルです。
そして、卑弥呼の使者が西暦239年に魏の帝都である洛陽に到着し魏帝に貢物を献上し親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられたという記述が、三国志魏志烏丸鮮卑東夷伝の倭人条に出てくる事もご存知でしょう。このように最初に魏による冊封を受ける事になった邪馬台国ですが、もし、孫権が最初に邪馬台国を発見したらどうなったか?というお遊びifを考えてみます。
※この記事は邪馬台国論争について踏み込みません。あくまでもお遊びです。
この記事の目次
孫呉にとっての史実の邪馬台国
私達は邪馬台国というと、非常に原始的な国であったかのように感じます。
西暦239年に倭国の使者が魏に朝貢したのも、たまたま偶然に遼東公孫氏が滅亡した年に、何も分からないままに倭国の難升米が洛陽まで来たのだろうと・・
しかし、何も知らないズブの素人がすんなり洛陽まで到達できるほどに当時の旅行はスムーズではない筈で、常識的に考えて魏に朝貢する前から邪馬台国が遼東公孫氏の冊封を受けていたと考えるのが自然です。
つまり、邪馬台国は遼東公孫氏に使者を派遣するつもりでいたが、公孫淵は司馬懿に討たれ、そこは魏の領地になっていたので、あわてて朝貢先を変更して洛陽に向かったとも考えられます。
一方で、魏は呉の背後を牽制する為に邪馬台国を利用できると考えこれを優遇したのでしょう。孫呉にとっては、邪馬台国は潜在敵だったのです。でも、もし邪馬台国が最初に遭遇したのが魏ではなく呉なら話は違ってきます。
西暦230年衛温・諸葛直邪馬台国を発見!
西暦230年、皇帝に即位したばかりの孫権は、将軍衛温・諸葛直に甲士万人を率いて渡海して夷洲および亶洲を探索させました。これは冒険航海ですが根拠がないものでもありません。
当時の長老の語る伝承では、夷洲および亶洲は、徐福の引き連れた童男童女の子孫が住む数万家があり、その人民には会稽に至って布を売る人間がいたし、会稽の人が海で漂流して夷洲や亶洲に漂流した事例もあるようです。距離から考えると台湾や奄美大島のような感じもしますが、一応、ここで衛温・諸葛直が邪馬台国を発見した事にします。
さて邪馬台国に上陸した衛温・諸葛直ですが、邪馬台国が建築物や人民は質素ながら、王の下に統制が取れ人口七万余戸と大きな国である事に驚きます。孫権は呉の人口不足を補う為にピーターよろしく人間狩りをしてこいと二人に命じていましたが、そんな事をすれば、逆襲を受けて全滅しかねないと恐れます。
そこで二人は、邪馬台国の王と交渉して呉の偉大さをPRし、自発的に呉に従属させようと考えます。二人は宮殿に通されますが、そこにいたのは初老の女であり、これが邪馬台国の王と聞いてビックリ、甚だ太古の習俗が残るものだと感心するやら呆れるやらです。
衛温の部下に朝鮮の言葉が出来る者があり、邪馬台国にも朝鮮語を介するものがあったので、二人は孫呉の偉大さを説き従属する事でメリットが多いと説いたので、卑弥呼は思案し、重臣を孫呉に向かわせ皇帝に挨拶したいと申し出ました。衛温・諸葛直は喜び、十数人の重臣の倭人を軍船に載せて孫呉に戻っていきました。
孫権に服属する公孫淵を見て邪馬台国も服属
西暦231年春2月、帰国した衛温・諸葛直が十数人の倭人を連れてきたことに、最低万人の奴隷を期待した孫権は激怒し二人を投獄しようとしますが、二人が大慌てで発見した邪馬台国がいかに強大で、頼もしいかを力説すると態度を豹変。倭人に対し、呉国の文物を何でも見聞し女王に報告するがよいと大物ぶります。倭人は二年近く建業にいて呉の文化を学びますが、西暦232年の10月に大事件が起きます。
魏の遼東太守公孫淵が校尉宿舒・閬中令孫綜を派遣して孫権に貢物を差し出して子分にしてくれと言ってきたのです。邪馬台国は遼東の公孫氏に朝貢していた身分なので、その公孫氏の使者が孫権に土下座している様子を見てビックリ動揺。
倭人A「あのアル中酒乱ヒゲダルマ、大した事ないかと思えば、公孫淵様を配下にするなんて、全く偉いもんだヤマ~」
倭人B「これは我々も呉に従属していくしかないヤマよ」
こうして、倭人十数人は孫権に願い出て邪馬台国に帰り、呉の強大さを知った卑弥呼は、孫権に奴隷や布を送り冊封を受けます。卑弥呼は親呉倭王として孫呉の数少ない朝貢国になったのです。
邪馬台国公孫淵の乱に援軍
邪馬台国が孫呉の支配下に入ったと聞いて、公孫淵は弱りました。やっぱり魏に付こうと考えていたのに、ここで呉を裏切ると背後から邪馬台国の水軍に攻撃されるのではないかと恐れたのです。当時の邪馬台国に遠征能力なんか無さそうですが、高麗王朝末期に編纂された三国史記の新羅本記によると、
西暦173年 - 倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣した。
西暦193年 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った。
西暦208年 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。
西暦232年 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
※Wikipediaより
このように卑弥呼支配下の邪馬台国は新羅を何度も攻めているのが分かります。それも死体と捕虜で千人規模という事は、全体では万単位かも知れません。だとすると公孫淵が背後を恐れても不思議はないでしょう。
公孫淵は、そのまま孫呉に臣従し、西暦239年魏の司馬懿の討伐を受けます。これに対し公孫淵と孫権より邪馬台国に援軍要請があり卑弥呼は5000の水軍を襄平に派遣。司馬懿の軍勢と激闘しますが、城に閉じこもる公孫淵と動きが遅い呉軍の前に孤立無援で大敗。数百人が命からがら邪馬台国へ逃げかえります。
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