毛利新介とはどんな人?桶狭間で今川義元を討ち取った織田家エリート

2020年6月6日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

織田信長の家臣で、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい
)
で今川義元(いまがわ よしもと
)
の首を取ったことで有名な毛利新介(もうりしんすけ)。歴史上ではそれ以外に目立った活躍は見られないのですが、一体どんな人だったのでしょうか?

 

謎の出生と信長の家臣に見られる二人の毛利氏との関係

 

毛利新介は通称で正式名は毛利良勝(もうり よしかつ
)
、桶狭間の戦い後には新左衛門(しんざえもん)と言う通称も使われています。尾張(おわり)の国の生まれと伝えられていますが、生まれ年は分かっていません。信長の家臣としては側近の精鋭部隊である「黒母衣衆(くろほろしゅう)」に選ばれており、信長(1534年生まれ)と同年代かあるいは年上ではないかと推察されます。というのもこの黒母衣衆である、川尻秀隆(かわじり ひでたか
)
が1527年生まれ、蜂谷頼隆(はちや よりたか)が1534年生まれ、津田盛月(つだ もりつき)が1534年生まれと生年が分かっている人物はいずれも信長と同年代か年上だからです。

 

織田信秀に接近する斯波義統

 

信長の家臣の中には幾人かの毛利姓の人物が見受けられます。そのうちの一人が毛利十郎という名です。この人物は信長の尾張統一前、1554年に織田信友(おだ のぶとも
)
が反乱を起こした際に、暗殺された尾張守護の斯波義統(しば よしむね
)
の子を救い出し那古野城(なごやじょう
)
に届けたとされています。この逸話が新介の桶狭間の戦いでの武功に繋がっていると「信長公記(しんちょうこうき
)
」に記されていることから新介とは近親者であったと推察されます。

 

また、この時助け出された子が後に信濃飯田城主まで出世するもう一人の毛利氏、毛利秀頼(もうり ひでより
)
(若いころは長秀と呼ばれた)です。毛利秀頼は黒母衣衆に対して赤母衣衆(あかほろしゅう)に選ばれて随所で戦働きの記録が残っています。経緯からして新介とは血のつながりはありませんが、信長の側近として一緒に行動していたことが記されており、かなり親しい間柄であったことが分かります。

 

派手な活躍はわずかにしか伝えられていませんが、毛利氏一族は熱田神宮(あつたじんぐう
)
の古文書にもその名が残っていることから信長の家臣として尾張統一以前からあるいは信長の父信秀時代から、重要な位置を占めていたのではないかと察せられます。

 

馬廻衆から黒母衣衆へ

馬に乗って戦う若き織田信長

 

戦国大名の組織としては、日常では大名の警護、事務作業の補助、家臣からの報告聴取、他国との交渉などを行い、戦場においてはその大名を守りつつ、伝令、決戦時の主力戦力として様々な活躍を行う「馬廻衆(うままわりしゅう)」と呼ばれる親衛隊が存在していました。

信長公記_織田信長_書類

 

派手好みで知られていた信長をこの馬廻衆を「黒母衣衆」と「赤母衣衆」と呼ばれる組織に再編しました。「信長記(しんちょうき)」によれば桶狭間の戦いの7年後の1567年とされていますが、現代の信長研究の第一人者の谷口克広(たにぐち かつひろ
)
氏によれば、桶狭間以前の1558年に馬廻衆の中から栄誉のものとしてこの二つの母衣衆を選抜したとしています。

 

新介は川尻秀隆(かわじり ひでたか
)
や佐々成政(さっさ なりまさ
)
など後に大名クラスに出世する家臣と並んで初期のころより黒母衣衆に名を連ねています。この黒母衣、赤母衣というのは、戦場を騎馬で駆け回る際に背中に黒や赤の幌(母衣)を背負って目印としたことからその名がついたもので、風に空気をはらんだ幌が風船のように膨らんで後方からの矢を防ぐ役割を果たしたとも言われています。いずれにしてもかなり目立つ姿であっただろうと思われ、味方からは大名の命を受けた伝令であることが容易に判別できる一方、敵方からは標的にされやすい危険な役割でした。

 

そのことは母衣衆に選ばれる武将は、大名の信任が厚く、かなりの手練れである必要がありました。新介は普段から信長の傍にあって、優れた能力を備えた武将であったのでしょう。

 

いざ桶狭間の戦いへ

鉄砲隊を率いる今川義元

 

1560年5月、今川義元は一説には25000人とも言われる大軍勢で駿河(するが)を出立し、尾張へ攻め込むべく歩を進めました。これまでの歴史の通説では尾張をひと揉みに蹂躙し、そのまま上洛を目指していたとされています。しかし今ではもとは義元の父氏親が尾張の国までを勢力範囲としていたが信長の父信秀に奪われたため、それを奪還するための出兵であったという説も有力視されています。

 

今川義元

 

いずれにしても、当時の動員能力が3000人とも言われていた信長に対して、大幅に凌駕する兵力で尾張へ進攻しようとしたことは確かです。

 

若い頃の徳川家康(松平元康)

 

緒戦は5月18日、すでに今川方であった尾張東部の大高城への兵糧運び込みが松平元康(まつだいら もとやす)(後の徳川家康(とくがわ いえやす
)
)によって成功裡に行われました。さらに翌日、大高城を取り巻く織田方の鷲津、丸根砦へと激しい攻撃を挑む一方、義元本隊は最前線である大高城の東約10kmにある沓掛城を出発、大高城へと西に向かいます。

 

対する信長は大高城の東北約3kmの善照寺砦に入り、軍を整えます。この時点で義元本隊は南東に約4kmの地点、桶狭間あたりに到達しつつあると思われます。決戦の19日午後は間近に迫るころでした。

 

精一杯の兵力2000人を揃えた信長は、善照寺砦の南約1kmにある中島砦に向かったとも言われていますが、義元本隊が桶狭間に休息と取っていると知り一気呵成に攻撃に向かったのでしょう。「信長公記」ではこの時、激しいにわか雨にまぎれて山あいの間道を密かに進み桶狭間の義元本隊に奇襲攻撃を仕掛けたとあります。豪雨の中「天は我に味方せり」と信長が剣を天に突き上げて叫ぶ有名なシーンですね。多勢の義元にわずか2000人の信長が勝利するには奇襲しかあり得ないとの考えからそのように描かれたのでしょう。

 

現代の説では25000人で出陣した義元も、遠くへの行軍のためその多くは食料などの物資を運ぶに荷駄隊であった上に、別動隊が大高城や鳴海城などへも動いていたと考えられます。実際には本隊は5000人程度であったと推察されています。したがって信長2000に対して義元5000と正面から激突しても信長に充分勝機のある兵力差であったかもしれません。

 

この信長軍2000人の中に、黒母衣衆の一員として新介の姿もありました。

 

見事、義元の首を取る

 

一気呵成に義元本隊に襲い掛かった信長は無勢にも関わらず、一気にそれを突き崩します。約300騎の馬廻衆に守られた義元はどんどん後退します。300騎あった周囲が50騎程度までに減ったその時、信長の馬廻衆であった服部小平太(はっとり こへいた)が義元に迫り、一番槍をつけます。義元は刀で応戦し、小平太の膝を払いケガを負わせます。そこへ新介が登場。槍をその手に義元に突進、見事義元を討ち果たします。

 

「信長公記」はこの時の模様をこのように伝えています。かなり激しい戦闘であったのでしょう。この際、新介は義元の激しい抵抗にあい指を食いちぎられたという話もあります。しかしこれは江戸時代の後期、1830年頃に表された「改正三河後風土記(かいせいみかわごふどき)」という書物にある記述で、後世になってからこの戦いが激しい戦闘であったことを表すために脚色したものと推察されます。

 

もっともこの桶狭間でこれほどの活躍を示した新介がその後は目立った戦働きをしていないことから、何か大きな負傷をしたのは事実かも知れないとも言えます。歴史の謎ですが、こういったところを想像してみるのも、楽しみのひとつでしょう。

 

新介が桶狭間の戦いで最も目立つ活躍ができたのも、先年毛利十郎が斯波義統の息子を助け出したことに対する神のご加護があったのだ、と「信長公記」では述べています。

桶狭間の論功行賞

 

桶狭間の論功行賞では、新介は左衛門尉という官位を信長から与えてもらいました。この左衛門尉というのは朝廷の官位では宮廷の警護を司る役所の武官に与えられるものでした。戦国時代には各地の戦国大名が家臣の武功をたたえる目的でこの官位を与えることが多くありました。武官としての官位なので大名には好まれたと言われています。

 

新介が与えられたこの官位は、もちろん朝廷から与えられた正式なものではなく、信長が独自に家臣に与えたものです。これにより、新介は新左衛門、すなわち新しく左衛門尉を授けられた者、と呼ばれることにもなりました。

 

この桶狭間の論功行賞では梁田政綱が、織田方の手に落ちた沓掛城を拝領していることからこれを一番の手柄であると「信長記」などでは記されています。従来この辺りを地盤としていた梁田氏が義元本隊の動向を信長に注進して、奇襲作戦に導いたという理由のようです。しかしながら信頼のおける史料にはそのような記述がないことから、何らかの働きは果たしたのは確かでしょうが、その内容ははっきりしていません。

 

やはりここは、一番槍の服部小平太と並んで、義元の首を取った新介の武功を一番の手柄として讃えたいところです。

 

その後の新介の活躍~大河内城攻め

天下布武を唱える織田信長

 

その後、信長は1565年に尾張統一を果たします。そして2年後には稲葉山城の斎藤氏を破り美濃の攻略に成功します。有名な「天下布武(てんかふぶ)」という印を用いて、天下統一を目指すという志を立てたのはこの頃のことです。本当の天下布武は、実は信長の天下統一への意志を指すのではなく、室町幕府の再興を果たそうという意味であるというのが正しいようです。

 

いずれにしても、新介は信長の側に仕えて、この間の各地への出陣に付き従っていただろうと想像されますが、歴史の表舞台には登場しません。次に新介が史実に登場するのは1569年の大河内城攻略戦において、ということになります。

 

美濃を手中に収めた信長は次いで伊勢攻略に歩を進めます。伊勢北部の小大名を傘下に加え、この年、国司大名である名門北畠具教との決戦に臨みます。この時、北畠氏の本拠地であった大河内城には具教が約8000人の兵で籠城しており、総勢70000と言われる兵力で出陣した信長軍はこの城を取り囲んで二重とも三重とも言われる鹿垣を構築しました。

 

この鹿垣を警備する役割として信長はそれぞれの母衣衆や馬廻衆から尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)という名称の部隊を編成しました。この一員に新介は選ばれています。籠城する大河内城からは周辺に点在する支城に籠城する味方勢力への伝令や、奇襲に出てくる小部隊、果ては籠城から逃げ出す兵士などが現れ、この鹿垣を破ろうとします。それを警備、撃退する役割がこの尺限廻番衆に与えられていたのです。

 

新介はこの籠城戦中に信長が花押を押した重要文書である判物や各種書状に署名を残しており、信長の最側近にいて文官的な役割も果たしていたものと想像されます。尺限廻番衆としても実際の戦闘行為よりも伝令的な仕事を主に行っていたのかもしれません。

 

この時、尺限廻番衆に任命された中には、前田利家のように戦闘に優れた武将もいる一方、菅家長頼や福富秀勝のように後に奉行として能力を発揮している武将もいました。信長側近である彼らには優れた戦闘能力と同時に文官としての頭脳も要求されていたのでしょう。

 

吏僚(文官)としての活躍

 

その後の新介は信長の側近として、伝令や使者としての役割を帯びていきます。1570年、北近江の姉川を舞台に行われた織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の大決戦では信長の使者として家康の元に出向いたとの記録が残っています。決戦を前に誰が先陣を務めるかという問題に、新介は信長からの命を受けて「家康殿には二番手を」と申し入れをしますが、家康から「二番手なら戦闘には参加せず見物させてもらいます」とあくまで先陣にこだわられ困り果ててしまいます。最終的には信長が「家康殿を先陣に」決し、決戦では家康軍が大奮闘することになりました。

 

武田信玄に挑む若き徳川家康

 

さらに1573年には三方ヶ原の戦いで武田信玄に手痛い敗戦を喫した同盟軍の徳川家康への使者として派遣され、戦いの慰労と今後の軍備強化について信長の意向を伝える役目を果たしています。どうやらこの頃にはすでに実際の戦場での戦闘行為には参加せずに、信長側近にいて文官として活躍するようになっていったのではないでしょうか。

 

1581年には毛利秀頼とともに中国攻めの軍団長である羽柴秀吉から、その戦況の報告を受ける役目を担っています。さらに1582年の信長による甲州への武田攻めにはお側衆として従軍しており、諏訪まで攻め込んだ際に奉行衆であった長谷川秀一(はせがわ ひでかず)や堀秀政(ほり ひでまさ
)
などとともに奈良興福寺の大乗院より陣中見舞いの贈り物を受け取っています。

 

織田信秀の馬廻衆への配置転換

織田信忠

 

新介はいつの時点かはっきりしませんが、信長の長男である信忠の馬廻衆に配置転換されているようです。1575年に信長は家督を信忠に譲ることを決め、美濃と尾張を与えています。その後信忠は紀伊の雑賀衆攻めや多聞山城の松永久秀(まつなが ひさひで
)
攻めに出陣していますが、毛利秀頼がその配下として活動している記録は残っているものの、新介がどの時点で信忠に付き従うようになったかは判然としません。

 

1582年の甲州出兵では、信忠が総大将を務め主要な働きをしていますが、この時には信長の側にあって陣中見舞いを受け取っているので、こののちに異動したのかもしれません。毛利秀頼とは一族ということもあって、大河内城攻めの尺限廻番衆や秀吉からの中国攻め戦況報告など同じ場面で登場することが散見されます。毛利一族として次第に信長から信忠へその活動場所を移していったのかもしれません。この甲州出兵以前から、秀頼とともに信忠と深い関係が生じていたことも充分に想定されます。

 

信長は信忠の能力を買って、帝王学を施していたと思われますので、その役割の一端を新介が担っていたのかもしれません。

 

二条城での最期

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀

 

甲州で武田家を滅ぼしてからわずかに三か月後1582年6月、信長は光秀の謀反にあい本能寺でその人生に終わりを告げます。この時、新介は信長とではなく信忠と行動をともにしています。

 

本能寺の変の織田信長

 

信忠は本能寺ではなく妙覚寺という寺に滞在しており、本能寺の信長が光秀に襲われたとの報を受けます。信長救援に向かうもののすでに自害したと知って側近らとともに皇太子誠仁親王の二条新御所に移動し、親王を逃がした後、そこに立て籠もって光秀軍と戦いました。

 

新介は当初は信長とともに本能寺にいたのか、先に信忠に付き従って妙覚寺にいたのか、記録には残っていません。しかし、最期の時は信忠とともに二条新御所で迎えることになりました。新介は信忠ともに無勢でありながら大奮戦したと伝えられていますが、最期は討ち死にしてしまいます。

 

この記事の最初に新介は信長と同年代ではなかろうかと推察しましたが、それが正しければこの時の新介は五十歳前後であったことでしょう。尾張統一以前から信長の側に仕えていた新介はその生涯を信長と同じ日に終えることとなったのでした。信長が桶狭間の戦いに臨んで舞ったと言われる「敦盛」にあるように「人間五十年…」そのままの人生を新介も歩んだのかもしれません。

 

信長をご祭神として祀っている京都市北区の建勲神社には信長の家臣から36人を選んで「織田信長公三十六功臣」としてその事績を額にしています。新介はその中の一人に選ばれその名を今に残しています。歴史の表舞台には桶狭間の戦いにしか登場していませんが、数多の信長家臣の中から三十六功臣に選ばれるほどの人物であったのでしょう。

 

毛利一族からは秀頼が本能寺の変当時、甲州制圧後に与えられた信濃飯田城にいたため難を逃れました。その後は天下統一を果たす豊臣秀吉の配下として活躍、いったんは失った飯田城主の座に返り咲き大名として名を残しました。その系譜は秀頼の娘婿の京極高知に繋がり丹後宮津藩主から旗本へとその命脈をたどることができます。

 

戦国ライター悟空さんの独り言

戦国史ライター 悟空

 

功績のあった家臣に対しても時に冷酷な仕打ちをする信長の側近として、その主君と同じ日にその人生の最期を迎えるまで重用されていた毛利新介。単に桶狭間の武功だけで生き延びたのではなく、側近として常に信長を納得させる働きを続けていたのでしょう。

 

一国一城の大名にはなれなかったけれども、数少ない史料の端々に活躍を感じさせる痕跡があって戦国時代の隠れたバイプレーヤーであったように思えます。

 

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小学生時代、図書室にあった和歌森太郎さんの「学習漫画 日本の歴史」に触れたのが歴史好きになったきっかけ。中学・高校時代は新選組の土方歳三に憧れ、司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」の世界にはまりました。大学時代は一転して考古学に、森浩一先生の授業を楽しく受講していました。戦国時代に関しては歴史がダイナミックに変転したこともあって、常に興味の対象ではありました。サラリーマンとして上海に駐在していた時には2010年版の「三国」がテレビ放映されており、中国語の勉強がてら観ていました。 好きな歴史人物: 土方歳三(滅びの美学に惹かれました) 織田信長(独裁的ではありますが、人材登用や経済政策などリーダーとしてはすばらしいと思います) 何か一言: 歴史を学べば、皆様のこれから歩む道に少しばかりの灯りがともされます。

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