織田信長の家臣で、桶狭間の戦いで今川義元の首を取ったことで有名な毛利新介。歴史上ではそれ以外に目立った活躍は見られないのですが、一体どんな人だったのでしょうか?
この記事の目次
謎の出生と信長の家臣に見られる二人の毛利氏との関係
毛利新介は通称で正式名は毛利良勝、桶狭間の戦い後には新左衛門と言う通称も使われています。尾張の国の生まれと伝えられていますが、生まれ年は分かっていません。信長の家臣としては側近の精鋭部隊である「黒母衣衆」に選ばれており、信長(1534年生まれ)と同年代かあるいは年上ではないかと推察されます。というのもこの黒母衣衆である、川尻秀隆が1527年生まれ、蜂谷頼隆が1534年生まれ、津田盛月が1534年生まれと生年が分かっている人物はいずれも信長と同年代か年上だからです。
信長の家臣の中には幾人かの毛利姓の人物が見受けられます。そのうちの一人が毛利十郎という名です。この人物は信長の尾張統一前、1554年に織田信友が反乱を起こした際に、暗殺された尾張守護の斯波義統の子を救い出し那古野城に届けたとされています。この逸話が新介の桶狭間の戦いでの武功に繋がっていると「信長公記」に記されていることから新介とは近親者であったと推察されます。
また、この時助け出された子が後に信濃飯田城主まで出世するもう一人の毛利氏、毛利秀頼(若いころは長秀と呼ばれた)です。毛利秀頼は黒母衣衆に対して赤母衣衆に選ばれて随所で戦働きの記録が残っています。経緯からして新介とは血のつながりはありませんが、信長の側近として一緒に行動していたことが記されており、かなり親しい間柄であったことが分かります。
派手な活躍はわずかにしか伝えられていませんが、毛利氏一族は熱田神宮の古文書にもその名が残っていることから信長の家臣として尾張統一以前からあるいは信長の父信秀時代から、重要な位置を占めていたのではないかと察せられます。
馬廻衆から黒母衣衆へ
戦国大名の組織としては、日常では大名の警護、事務作業の補助、家臣からの報告聴取、他国との交渉などを行い、戦場においてはその大名を守りつつ、伝令、決戦時の主力戦力として様々な活躍を行う「馬廻衆」と呼ばれる親衛隊が存在していました。
派手好みで知られていた信長をこの馬廻衆を「黒母衣衆」と「赤母衣衆」と呼ばれる組織に再編しました。「信長記」によれば桶狭間の戦いの7年後の1567年とされていますが、現代の信長研究の第一人者の谷口克広氏によれば、桶狭間以前の1558年に馬廻衆の中から栄誉のものとしてこの二つの母衣衆を選抜したとしています。
新介は川尻秀隆や佐々成政など後に大名クラスに出世する家臣と並んで初期のころより黒母衣衆に名を連ねています。この黒母衣、赤母衣というのは、戦場を騎馬で駆け回る際に背中に黒や赤の幌(母衣)を背負って目印としたことからその名がついたもので、風に空気をはらんだ幌が風船のように膨らんで後方からの矢を防ぐ役割を果たしたとも言われています。いずれにしてもかなり目立つ姿であっただろうと思われ、味方からは大名の命を受けた伝令であることが容易に判別できる一方、敵方からは標的にされやすい危険な役割でした。
そのことは母衣衆に選ばれる武将は、大名の信任が厚く、かなりの手練れである必要がありました。新介は普段から信長の傍にあって、優れた能力を備えた武将であったのでしょう。
いざ桶狭間の戦いへ
1560年5月、今川義元は一説には25000人とも言われる大軍勢で駿河を出立し、尾張へ攻め込むべく歩を進めました。これまでの歴史の通説では尾張をひと揉みに蹂躙し、そのまま上洛を目指していたとされています。しかし今ではもとは義元の父氏親が尾張の国までを勢力範囲としていたが信長の父信秀に奪われたため、それを奪還するための出兵であったという説も有力視されています。
いずれにしても、当時の動員能力が3000人とも言われていた信長に対して、大幅に凌駕する兵力で尾張へ進攻しようとしたことは確かです。
緒戦は5月18日、すでに今川方であった尾張東部の大高城への兵糧運び込みが松平元康(後の徳川家康)によって成功裡に行われました。さらに翌日、大高城を取り巻く織田方の鷲津、丸根砦へと激しい攻撃を挑む一方、義元本隊は最前線である大高城の東約10kmにある沓掛城を出発、大高城へと西に向かいます。
対する信長は大高城の東北約3kmの善照寺砦に入り、軍を整えます。この時点で義元本隊は南東に約4kmの地点、桶狭間あたりに到達しつつあると思われます。決戦の19日午後は間近に迫るころでした。
精一杯の兵力2000人を揃えた信長は、善照寺砦の南約1kmにある中島砦に向かったとも言われていますが、義元本隊が桶狭間に休息と取っていると知り一気呵成に攻撃に向かったのでしょう。「信長公記」ではこの時、激しいにわか雨にまぎれて山あいの間道を密かに進み桶狭間の義元本隊に奇襲攻撃を仕掛けたとあります。豪雨の中「天は我に味方せり」と信長が剣を天に突き上げて叫ぶ有名なシーンですね。多勢の義元にわずか2000人の信長が勝利するには奇襲しかあり得ないとの考えからそのように描かれたのでしょう。
現代の説では25000人で出陣した義元も、遠くへの行軍のためその多くは食料などの物資を運ぶに荷駄隊であった上に、別動隊が大高城や鳴海城などへも動いていたと考えられます。実際には本隊は5000人程度であったと推察されています。したがって信長2000に対して義元5000と正面から激突しても信長に充分勝機のある兵力差であったかもしれません。
この信長軍2000人の中に、黒母衣衆の一員として新介の姿もありました。
見事、義元の首を取る
一気呵成に義元本隊に襲い掛かった信長は無勢にも関わらず、一気にそれを突き崩します。約300騎の馬廻衆に守られた義元はどんどん後退します。300騎あった周囲が50騎程度までに減ったその時、信長の馬廻衆であった服部小平太が義元に迫り、一番槍をつけます。義元は刀で応戦し、小平太の膝を払いケガを負わせます。そこへ新介が登場。槍をその手に義元に突進、見事義元を討ち果たします。
「信長公記」はこの時の模様をこのように伝えています。かなり激しい戦闘であったのでしょう。この際、新介は義元の激しい抵抗にあい指を食いちぎられたという話もあります。しかしこれは江戸時代の後期、1830年頃に表された「改正三河後風土記」という書物にある記述で、後世になってからこの戦いが激しい戦闘であったことを表すために脚色したものと推察されます。
もっともこの桶狭間でこれほどの活躍を示した新介がその後は目立った戦働きをしていないことから、何か大きな負傷をしたのは事実かも知れないとも言えます。歴史の謎ですが、こういったところを想像してみるのも、楽しみのひとつでしょう。
新介が桶狭間の戦いで最も目立つ活躍ができたのも、先年毛利十郎が斯波義統の息子を助け出したことに対する神のご加護があったのだ、と「信長公記」では述べています。
【次のページに続きます】