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この記事の目次
桶狭間の論功行賞
桶狭間の論功行賞では、新介は左衛門尉という官位を信長から与えてもらいました。この左衛門尉というのは朝廷の官位では宮廷の警護を司る役所の武官に与えられるものでした。戦国時代には各地の戦国大名が家臣の武功をたたえる目的でこの官位を与えることが多くありました。武官としての官位なので大名には好まれたと言われています。
新介が与えられたこの官位は、もちろん朝廷から与えられた正式なものではなく、信長が独自に家臣に与えたものです。これにより、新介は新左衛門、すなわち新しく左衛門尉を授けられた者、と呼ばれることにもなりました。
この桶狭間の論功行賞では梁田政綱が、織田方の手に落ちた沓掛城を拝領していることからこれを一番の手柄であると「信長記」などでは記されています。従来この辺りを地盤としていた梁田氏が義元本隊の動向を信長に注進して、奇襲作戦に導いたという理由のようです。しかしながら信頼のおける史料にはそのような記述がないことから、何らかの働きは果たしたのは確かでしょうが、その内容ははっきりしていません。
やはりここは、一番槍の服部小平太と並んで、義元の首を取った新介の武功を一番の手柄として讃えたいところです。
その後の新介の活躍~大河内城攻め
その後、信長は1565年に尾張統一を果たします。そして2年後には稲葉山城の斎藤氏を破り美濃の攻略に成功します。有名な「天下布武」という印を用いて、天下統一を目指すという志を立てたのはこの頃のことです。本当の天下布武は、実は信長の天下統一への意志を指すのではなく、室町幕府の再興を果たそうという意味であるというのが正しいようです。
いずれにしても、新介は信長の側に仕えて、この間の各地への出陣に付き従っていただろうと想像されますが、歴史の表舞台には登場しません。次に新介が史実に登場するのは1569年の大河内城攻略戦において、ということになります。
美濃を手中に収めた信長は次いで伊勢攻略に歩を進めます。伊勢北部の小大名を傘下に加え、この年、国司大名である名門北畠具教との決戦に臨みます。この時、北畠氏の本拠地であった大河内城には具教が約8000人の兵で籠城しており、総勢70000と言われる兵力で出陣した信長軍はこの城を取り囲んで二重とも三重とも言われる鹿垣を構築しました。
この鹿垣を警備する役割として信長はそれぞれの母衣衆や馬廻衆から尺限廻番衆という名称の部隊を編成しました。この一員に新介は選ばれています。籠城する大河内城からは周辺に点在する支城に籠城する味方勢力への伝令や、奇襲に出てくる小部隊、果ては籠城から逃げ出す兵士などが現れ、この鹿垣を破ろうとします。それを警備、撃退する役割がこの尺限廻番衆に与えられていたのです。
新介はこの籠城戦中に信長が花押を押した重要文書である判物や各種書状に署名を残しており、信長の最側近にいて文官的な役割も果たしていたものと想像されます。尺限廻番衆としても実際の戦闘行為よりも伝令的な仕事を主に行っていたのかもしれません。
この時、尺限廻番衆に任命された中には、前田利家のように戦闘に優れた武将もいる一方、菅家長頼や福富秀勝のように後に奉行として能力を発揮している武将もいました。信長側近である彼らには優れた戦闘能力と同時に文官としての頭脳も要求されていたのでしょう。
吏僚(文官)としての活躍
その後の新介は信長の側近として、伝令や使者としての役割を帯びていきます。1570年、北近江の姉川を舞台に行われた織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の大決戦では信長の使者として家康の元に出向いたとの記録が残っています。決戦を前に誰が先陣を務めるかという問題に、新介は信長からの命を受けて「家康殿には二番手を」と申し入れをしますが、家康から「二番手なら戦闘には参加せず見物させてもらいます」とあくまで先陣にこだわられ困り果ててしまいます。最終的には信長が「家康殿を先陣に」決し、決戦では家康軍が大奮闘することになりました。
さらに1573年には三方ヶ原の戦いで武田信玄に手痛い敗戦を喫した同盟軍の徳川家康への使者として派遣され、戦いの慰労と今後の軍備強化について信長の意向を伝える役目を果たしています。どうやらこの頃にはすでに実際の戦場での戦闘行為には参加せずに、信長側近にいて文官として活躍するようになっていったのではないでしょうか。
1581年には毛利秀頼とともに中国攻めの軍団長である羽柴秀吉から、その戦況の報告を受ける役目を担っています。さらに1582年の信長による甲州への武田攻めにはお側衆として従軍しており、諏訪まで攻め込んだ際に奉行衆であった長谷川秀一や堀秀政などとともに奈良興福寺の大乗院より陣中見舞いの贈り物を受け取っています。
織田信秀の馬廻衆への配置転換
新介はいつの時点かはっきりしませんが、信長の長男である信忠の馬廻衆に配置転換されているようです。1575年に信長は家督を信忠に譲ることを決め、美濃と尾張を与えています。その後信忠は紀伊の雑賀衆攻めや多聞山城の松永久秀攻めに出陣していますが、毛利秀頼がその配下として活動している記録は残っているものの、新介がどの時点で信忠に付き従うようになったかは判然としません。
1582年の甲州出兵では、信忠が総大将を務め主要な働きをしていますが、この時には信長の側にあって陣中見舞いを受け取っているので、こののちに異動したのかもしれません。毛利秀頼とは一族ということもあって、大河内城攻めの尺限廻番衆や秀吉からの中国攻め戦況報告など同じ場面で登場することが散見されます。毛利一族として次第に信長から信忠へその活動場所を移していったのかもしれません。この甲州出兵以前から、秀頼とともに信忠と深い関係が生じていたことも充分に想定されます。
信長は信忠の能力を買って、帝王学を施していたと思われますので、その役割の一端を新介が担っていたのかもしれません。
二条城での最期
甲州で武田家を滅ぼしてからわずかに三か月後1582年6月、信長は光秀の謀反にあい本能寺でその人生に終わりを告げます。この時、新介は信長とではなく信忠と行動をともにしています。
信忠は本能寺ではなく妙覚寺という寺に滞在しており、本能寺の信長が光秀に襲われたとの報を受けます。信長救援に向かうもののすでに自害したと知って側近らとともに皇太子誠仁親王の二条新御所に移動し、親王を逃がした後、そこに立て籠もって光秀軍と戦いました。
新介は当初は信長とともに本能寺にいたのか、先に信忠に付き従って妙覚寺にいたのか、記録には残っていません。しかし、最期の時は信忠とともに二条新御所で迎えることになりました。新介は信忠ともに無勢でありながら大奮戦したと伝えられていますが、最期は討ち死にしてしまいます。
この記事の最初に新介は信長と同年代ではなかろうかと推察しましたが、それが正しければこの時の新介は五十歳前後であったことでしょう。尾張統一以前から信長の側に仕えていた新介はその生涯を信長と同じ日に終えることとなったのでした。信長が桶狭間の戦いに臨んで舞ったと言われる「敦盛」にあるように「人間五十年…」そのままの人生を新介も歩んだのかもしれません。
信長をご祭神として祀っている京都市北区の建勲神社には信長の家臣から36人を選んで「織田信長公三十六功臣」としてその事績を額にしています。新介はその中の一人に選ばれその名を今に残しています。歴史の表舞台には桶狭間の戦いにしか登場していませんが、数多の信長家臣の中から三十六功臣に選ばれるほどの人物であったのでしょう。
毛利一族からは秀頼が本能寺の変当時、甲州制圧後に与えられた信濃飯田城にいたため難を逃れました。その後は天下統一を果たす豊臣秀吉の配下として活躍、いったんは失った飯田城主の座に返り咲き大名として名を残しました。その系譜は秀頼の娘婿の京極高知に繋がり丹後宮津藩主から旗本へとその命脈をたどることができます。
戦国ライター悟空さんの独り言
功績のあった家臣に対しても時に冷酷な仕打ちをする信長の側近として、その主君と同じ日にその人生の最期を迎えるまで重用されていた毛利新介。単に桶狭間の武功だけで生き延びたのではなく、側近として常に信長を納得させる働きを続けていたのでしょう。
一国一城の大名にはなれなかったけれども、数少ない史料の端々に活躍を感じさせる痕跡があって戦国時代の隠れたバイプレーヤーであったように思えます。
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