張苞、関興と言えば三国志演義では父親の敵討ちを誓い、後に父たちと同じく義兄弟となるという熱い展開が有名です。しかしその一方で、あっさりと退場してしまうので驚いた人もいるのではないでしょうか。
もっと言うなら、張苞の最期は関興と比べても更にあっさりです。今回は張苞の最期と関興の最期を比較しつつ、そこに影響を与えた関平についてもお話していきたいと思います。
この記事の目次
張苞の最期~三国志演義~
まずは張苞の最期、三国志演義から見ていきましょう。
張苞は父親である張飛の敵討ちのために従軍し、劉備のとりなしで関羽の息子である関興と義兄弟になります。その後、張苞は自らの手で父の仇を斬り、武功を立てるなど活躍をしていきます。
が、二回目の北伐の際に敵の追跡の際に谷に転落して、その傷が悪化したことで亡くなります。早すぎる死は諸葛亮を悲しませることとなります。
張苞の死因は?
さて三国志演義を見ると張苞の死因は傷の悪化。吉川三国志や横山三国志でもそれを踏まえて破傷風での死亡となっています。ではここで気になる正史三国志での張苞の死因は?ということ。なんと正史には記述がありません。というよりも張苞の記述がほとんどなく、若くして死んだと書かれているのみです。張飛よりも先に亡くなっているので、ほぼ張苞の正史の記載はないのです。なので死因は不明なままなのですね。
三国志演義での張苞の死因とそれより印象に残る諸葛亮
前述したように三国志演義では張苞は谷に落ちて、その傷が悪化して亡くなったとなっています。この三国志演義を基に吉川三国志が描かれ、横山三国志が描かれているのですが、そこではもう少し分かりやすくするためか、破傷風による死亡と言う死因にされています。
が、ここでちょっと問題になるのが諸葛亮。筆者は横山三国志では張苞がいきなり退場したことよりも、その直後に吐血して倒れた諸葛亮の方が印象に残っているのです。張苞の亡くなったシーンなのにメインが諸葛亮にすぐ移り変わるので、印象をほとんど諸葛亮に取られてしまっているのがちょっと切ない所ですね。
関興の死因は?
では対して関興の死因はどうなっているのかと言うと、正史にも少し記載があります。ここでは「関興は未来を諸葛亮からも期待されていた」「馬良の後任として20歳にして侍中、中監軍に任ぜられた」と張苞よりも長く生き、活躍していた関興の姿が記されています。
しかしが数年後若くして没したとあるので、やはり早逝したのでしょう。記載がないため正しいことは分かりませんが、討ち死になどではなくおそらく病死であったのでは……と思われます。
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