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この記事の目次
関興の最期~三国志演義~
というのも関興の最期は、三国志演義でも張苞よりも記述が多くなっているからです。三国志演義では関興は第四次北伐には病のため参加できず、程なく病没したとされています。
また関興の訃報を聞いた諸葛亮が悲しみのあまり倒れてしまうという描写つきで、何だか張苞よりも優遇されているように思いますね。横山三国志でも関興は療養中のシーンが描かれてたり、訃報を受けた孔明が夜空を見つめて涙を流すシーンがあったりするなど、死因はどうあれ張苞よりも見せ場が多いのが特徴のように見えます。
なぞのカギは関平に!?
さてここで気になるのはどうして関興の方が三国志演義で演出が多いのか、ということ。確かに正史でも張苞よりも関興の方が記述は多いですが、別段多いというほど多くはなく、伝が立てられている訳でもありません。また「親の後を息子が継いで活躍する」という話ならば、張苞だって同じ条件なはず。と、調べてみるとそのカギは関平と言う意外な所にありました。
三国志平話から輸入された関興
実は三国志平話では「父親の後を継いで活躍する」「父親の仇を討つ」という役目は、関平なのです。つまり張苞よりも関興よりも、関平がその役割を持っていたということになります。
おそらくここから三国志演義での関興の形が生まれ、その分関興のエピソードも増えたのではないでしょうか?
そしてそれを踏まえて考えると「あ、どうせなら張苞も入れて義兄弟エピソードをやろう」となったのでは……そうすると張苞をどこかで退場させなくてはいけないので、あのあっけない最期になったのでは?と今回は想像してみたのですが、皆さんはどう思いますか?
三国志ライター センのひとりごと
今回は張苞の最期や死因を見て、そこから関興に話を見て、そして関平に繋がると思うと何だか不思議な感じがしました。なかなか突拍子もない描写も多い三国志演義ではありますが、こうしてみていくとそのエピソードのルーツを探るのも面白いですね。
もしかしたら馬良の呆気ない最期もなにか意味が……いや、絶対ここは作者が忘れていた……なんて、最後にちょっとだけ恨みを吐いて結ぶことといたしましょう。
参考文献:蜀書張飛伝 関羽伝 諸葛亮伝
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