シモ・ヘイヘは、フィランドの軍人で世界一の狙撃記録を持つスナイパーです。特にフィンランドとソビエト連邦との間で起った冬戦争ではソビエト赤軍から白い死神と呼ばれて恐れられました。
シモ・ヘイヘが射殺した兵士数は542名と史上最多で冬戦争の勝利に大きく貢献。2002年にフィランド国営放送が発表した「最も偉大なフィンランド人ランキング」で第74位に選ばれました。今回はフィンランドの愛国スナイパーシモ・ヘイヘを紹介します。
この記事の目次
猟師だったシモ・ヘイヘ
シモ・ヘイヘは現在のロシアとの国境近くにあるラウトヤルヴィという小さな町で生まれました。軍人になる前には猟師兼農民として働き、20歳の頃に民兵組織「白衛軍」に加入、射撃大会にもたびたび参加し、家には多くのトロフィーが飾られていたようです。
ヘイヘは、根っから狙撃が好きな人で、農家での仕事の昼休みに他の男が昼寝をしているのを他所に、ヘイヘだけは昼寝もしないで、あらかじめ森の端につけておいた目標をめがけ建物の窓から空砲で狙撃練習を繰り返しおこない、全員が起きてくるまで撃ち続けていたそうです。
1925年、20歳になったシモ・ヘイヘは15カ月の兵役義務でフィンランド国防陸軍に入隊し、新兵訓練を第1自転車大隊で過ごし、下士官学校を経て兵長となり、残りの任期を第2自転車大隊で過ごし、除隊後は予備役に回り、民間防衛隊に入隊します。
ソビエト、フィンランドに軍事進攻、冬戦争始まる
1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結し秘密議定書により、独ソによる東欧の勢力圏分割が約束されます。
ソ連は、ドイツに認めさせた密約に従い、バルト三国とフィンランドへの圧力を強め、バルト三国に対し軍事基地の設置とソ連軍の駐留を含む相互援助条約を結ばせました。
ソビエトはフィンランドにも国境線の変更や軍事基地の設置、ソ連軍の駐留を求めますがフィンランドは拒否し交渉は決裂します。そこで、ソビエトは実力行使に出ました。ソ連は自らの国境警備隊がフィンランド軍から発砲を受けたとでっち上げ1939年11月30日にフィンランドに侵攻します。
これが冬戦争で、1940年の3月13日まで続き、一時の講和帰還を挟み、継続戦争として1941年6月25日から1944年9月19日まで続きます。シモ・ヘイヘは、予備役兵長として招集され、フィンランド国防陸軍歩兵12師団第34連隊第6中隊に配属され、故郷の町に近いコッラー川周辺の防衛任務につきます。
ソ連の自作自演はなんのため?
ところでどうして、ソ連はフィンランド軍に発砲を受けたと自作自演をしたのでしょう?
それは国際法で侵略戦争が禁止になっていたからです。しかし、国際法は侵略の定義を曖昧にしていたので、少なくとも自分から「他国を侵略するぞ!」と宣言して攻め込まなければ、自衛戦争と解される余地が残されました。
そこで、ソ連はフィンランド軍にソ連国境警備隊が攻撃され自国の安全保障が脅かされたので自衛目的で攻め込んだという建前を必要としたのです。
この、戦争目的を自衛にすれば、事実上、どこにでも攻め込めるという理屈はソビエトばかりではなくアメリカも多用し、ベトナム戦争も、イラク戦争もアメリカの安全保障への重大な脅威として攻め込んでいます。
白い死神の誕生
シモ・ヘイヘが配属された第6中隊の指揮官は、フランス外国人部隊勤務経験を持ち「モロッコの恐怖」とあだ名されたアールネ・ユーティランネン中尉でした。ユーティランネン中尉は、民間防衛隊での射撃成績から判断し、ヘイヘを特定の小隊に配置せずに最も能力を有効に発揮できる狙撃兵の任務を与えます。
それは、ヘイヘのスナイパーとしての能力を最大限に生かし、平均気温マイナス20℃から40℃という極寒の中を、ヘイヘは雪に紛れる純白の迷彩服を着こんで音もなく狙撃を行い、次々とソビエト赤軍の兵士を射殺していきました。ヘイヘは無駄撃ちをせず、狙った標的の頭部を正確に撃ち抜いて殺したので、赤軍兵士から白い死神とあだ名されます。
【次のページに続きます】