後漢末、董卓の貨幣改鋳の失敗で五銖銭は鉄屑になり貨幣経済が崩壊、三国志の時代には、布帛や穀物が貨幣として流通するようになります。曹操も、納税を不足していた銭ではなく農作物の物納に切り替えましたがここにはどんな意味があったのでしょうか?
曹操の措置は一見面倒臭そうですが、農民には歓迎されました。それは何故でしょうか?
収穫時期が原因で市場原理が下落してしまう
貨幣経済が崩壊する前、農民は税金を銭で納めていました。しかし収穫した農作物をお金に換えるには市場で売りさばく必要があります。ところが収穫期はどこでも同じなので、この時期には市場に農作物が殺到し市場原理で価格が下落してしまうのです。
農作物を安い値段が買い叩かれた農民
本当なら安い時には売らずに高くなってから売りたいのですが、徴税役人にせっつかれて、冬の備えが必要な貧しい農民は泣く泣く安い価格で農作物を買いたたかれていました。
曹操による税制上の措置
一方で曹操は納税を物納にしたのですが、物納なら単純に収穫物の重さなので、物価の上下は関係ありません農民は市場に影響されず、毎年一定の農作物を納めればいいので暮らしが立てやすくなったのです。
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国家にとっては不便だった物納事情
農民にとっては有難い物納ですが、国家にとっては不便でした。毎年作物が実ってみないと国家の歳入が分からないからです。銭納なら、例えば300銭と決めれば、作物の値段が高かろうが安かろうが農民が損しても得しても毎年300銭を用意して納めます。
だから、農民の頭数を把握すれば毎年の歳入がちゃんとわかるので予算が組みやすいのです。こんなわけなので、天下が統一されると貨幣経済が整備され、納税は再び銭納へと回帰していくのでした。
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