三国志における劉備の最大のライバルは、何と言っても曹操です。でも、曹操から見ると劉備は最大のライバルではないかも知れません、というのも劉備と曹操の激突を見ていると劉備が何もしないで逃げているケースが余りにも多いのです。
今回の「はじめての三国志」は、劉備が曹操最大のライバルと言えるのか?を考えてみます。
この記事の目次
バトル1:劉備、公孫瓚配下として曹操と激突し敗北
劉備と曹操の戦いの歴史はかなり早く、西暦192年に曹操が兗州牧に就任した頃です。
この頃、袁紹と袁術の関係が修復不可能なレベルに険悪化し袁術は公孫瓚に援けを求めました。これを受けて公孫瓚は劉備を高唐に、単経を平原に陶謙を発干に駐屯させて袁紹を締め上げますが、曹操は袁紹と力を合わせて撃破しました。
この時は、劉備がメインの戦いではないので、そんなに苦手意識もついていないようです。
バトル2:小沛の戦い。曹操怖い病が発現し戦わずに逃走
二度目のバトルは、西暦200年頃、劉備が曹操暗殺計画に加担し、袁術を討伐する名目で許を離れ、その後徐州に舞い戻って徐州刺史の車冑を殺して州を乗っ取り、小沛に駐屯した時でした。この時、曹操は官渡の戦いの直前で、劉岱と王忠を討伐に送り込みますが、劉備に撃破されます。
そこで、曹操は袁紹が官渡に至るまでの時間差を使い、長駆して劉備を討ちました。この時、劉備は曹操が来るとは夢にも思わず、曹操の大将旗を見ると一目散に逃げていき逃げ遅れた将軍の夏侯博が捕虜にされています。理由は不明ですが、この頃から劉備には曹操怖い病の発現が見られます。
バトル3:汝南でまた曹操から逃亡
官渡の戦いが始まると、劉備は袁紹により豫洲の汝南郡に派遣されて、県を扇動して曹操に叛かせ、本拠地の許を動揺させようとします。しかし官渡で袁紹が敗れると万事休止、劉備は、汝南で賊の龔都と活動していたので、曹操は蔡揚を派遣して龔都を討たせますが撃破されました。
そこで、曹操は自ら出陣を決定、それを聴いた劉備は、また戦う前に敗走し龔都は撃破され潰走します。
バトル4長坂の戦い曹操から逃亡、妻子置き去り
西暦207年、劉琮が曹操に降伏し、樊城にいた劉備一行は退却を開始しました。しかし、当陽に至る頃には、曹操から逃げる難民が十万以上、輜重が三千という超のろのろ行軍になります。ある部下が難民は見捨てて、騎兵だけで江陵に入り態勢を立て直しましょうと言いますが、劉備は民を見捨てられないとカッコマンな事を言い断ります。
ところが軽騎兵だけで、一日一夜を駆けてきた曹操軍5千が出現すると、劉備は瞬時に曹操怖い病がぶり返し、難民どころか妻子まで置き去りにして、諸葛亮、張飛、趙雲のような一部の重臣を引き連れてロケットダッシュで逃げていきます。
バトル5:赤壁の戦い!直接対決はなし
西暦208年の赤壁の戦いでは、劉備は呉の周瑜の軍勢にくっついていただけで、直接、曹操と戦い、勝利したような描写は見られません。曹操軍に勝利したと言うなら勝ち星1ですが、あくまでも曹操に勝利していないので△としてカウントします。
バトル6:陽平関の戦いで曹操に初勝利!
西暦218年、ここまで曹操に連戦連敗してきた劉備が、夏侯淵の弔い合戦で長安から、遥々やってきた曹操に初めて勝利します。しかし、この時の戦いは、これまでの野戦とは異なり、劉備は陽平関に閉じこもって出て来ず、曹操が物資を消耗して退却を決意する事になります。終始自信満々の劉備でしたが、地形の険阻さを活用できた自信からのようですね。
翌々年の正月に曹操は死んでしまうので、劉備は最後に曹操に勝利したという形で自身の戦歴を飾る事が出来ました。
劉備の曹操怖い病も立派な兵法
バトル2から、曹操相手にはひたすら逃げまくるという情けない戦法に終始した劉備ですが、これはある意味で究極の兵法を実践しているとも言えます。それは、兵法三十六計の走為上、つまり逃げるより上はないというもので、どんな計略を仕掛けても相手が逃げ続ければどうしようもないという事です。
もし、劉備に負けん気があり、勝てないにしても曹操に一矢報いてやろうと考えてしまえば、曹操から逃げる時間を大幅に損ねる事になり、どこかで捕まるという失態を侵したかも知れません。
その場合、曹操はまず許さないと考えられ、そこで劉備の人生はジ・エンドです。しかし、劉備は普通にやったら曹操に勝てないというリアルな感覚を終始捨てないでいたので、毎回逃げる事に成功していたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
自分が勝利できない相手に対して、いかに対応するかは三国志のような時代では、かなり重要な生き残りスキルです。ここは慎重にも慎重にいかないと勝てるつもりが技量が足りないとなれば、身の程知らずで終わってしまいますからね。
参考:正史三国志
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