三国志の英雄劉備、そのイメージと言えば貧しい境遇から人間的な魅力を武器に人望を集め、遂には諸葛孔明を配下に加えて蜀の皇帝に昇り詰めるサクセスストーリーが浮かびます。
しかし、劉備には隠されたイメージとして中国大陸を歩き続けた劉さんぽの一面があるのはご存知でしょうか?
今回は正史三国志から、劉備の歩いた中国大陸を追体験してみましょう。
この記事の目次
ズバリ!劉備の生涯の足取り
最初に劉備が生涯にどれほど移動したかを大雑把ですが地図にしました。ルートは無茶苦茶ですが、移動した土地を単純に線引きしてみると劉備が広範囲を歩き回っている事が分かりますね。劉備の移動距離は冒険家並みと言っていいでしょう。
最初の移動 洛陽に近い緱氏
劉備の最初の大規模な移動は15歳の頃、幽州涿郡涿県の故郷から盧植の私塾があった洛陽に近い緱氏に住み込んだ時でした。しかし、当時は党錮の禁がまだまだ厳しく劉備のような豪族が出世する道は閉ざされています。
そんなわけで、劉備は半年程度しか私塾に在籍しておらず、勉強には身を入れないでドッグレースや乗馬、音楽を楽しみ着飾って過ごすボンクラ学生になりました。ただ、ここである程度の人脈を築いた事が、その後のコネ人生に大きく影響します。
黄巾討伐・公孫瓚部将時代
その後、涿郡に戻った劉備は馬商人の張世平蘇双の資金援助を受け、関羽や張飛を配下にして黄巾討伐の義兵を挙げ、校尉鄒靖に従い手柄を立て、冀州中山郡、安喜県尉に任命されます。
しかし、そこで督郵がやってきてリストラに遭遇し逆上して督郵を杖打ち逃走。この後、都尉毌丘毅に従い、徐州の下邳で力戦して手柄を立て青州北海国、下密県で丞に任命されました。
劉備は、ここもすぐに辞めて青州平原郡の高唐県尉、そして高唐令になります。ところがここでは、黄巾賊に城を破られ公孫瓚を頼り逃走しました。
公孫瓚は劉備の能力を評価し、別部司に任命され、青州刺史田楷と共に、冀州牧の袁紹を防ぎます。この頃に劉備は趙雲と出会い、しばしば戦功を立てて平原令を任され後に平原相を兼ねました。
僅かな期間の間に劉備は冀州、徐州、青州を往復しています。劉備の生涯でも目まぐるしく忙しい時代だった事でしょう。
徐州牧時代
袁紹が公孫瓚を攻めると、劉備は田楷と東のかた斉に駐屯します。次に曹操が徐州を征伐すると、徐州牧陶謙が田楷に救援を求め、劉備は田楷と徐州に出向いて曹操を追い払いました。
陶謙は劉備を見込んで丹陽兵4000人を預けると共に劉備を豫洲刺史<として上表し徐州牧を任せ、劉備は下邳に入りました。その後、劉備は転がり込んできた呂布を保護。
ところが袁術と小競り合いをしている間に呂布に下邳を奪われます。
劉備は海西に進駐して呂布に和を請い、豫洲の小沛に入りました。この後、劉備は恐らくキャッシュディスペンサーの麋竺の援助で、再び万人の兵力を集め、落ちぶれてスマン状態で徐州と揚州の間を盗賊して回っていた楊奉・韓暹を撃破して捕らえ斬首します。
ところが、呂布は劉備の強さに脅威を抱き小沛の劉備を攻撃して撃破しました。
劉備は、司隷の曹操を頼って許県に落ち延びます。この頃の劉備も、青洲、徐州、豫洲をひっきりなしに往来しています。
曹操の居候時代から反逆失敗時代
次に劉備は、袁術が袁紹を頼るのを阻止するように曹操に命じられ、朱霊や路招を率いて揚州の寿春に袁術攻撃に向かいますが、その前に袁術は「ハニーウォータープリーズ!」と絶叫し病死していました。
袁術を討伐する前、劉備は董承の曹操暗殺計画に一枚噛んでいて、それがバレるのを恐れていたのでこのまま許には帰らず、
朱霊や路招のみを帰すと曹操の軍勢を率いて、徐州の下邳に急行し、徐州刺史の車冑を殺害。実力で徐州牧に返り咲き、関羽を下邳に駐屯させると自分は小沛に駐屯しました。
これを怒った曹操が、下邳と小沛を攻めると関羽は敗北して曹操に捕らえられ、劉備は青州に敗走します。
その後、劉備は平原に赴き、袁紹の客将として曹操と天下分け目の戦いをする事になります。この時代の劉備は揚州、徐州、青州と、またもや三州をまたに掛けています。きっと引っ越ししても、次の引っ越しに備え荷物の紐は解かなかったでしょう。
袁紹の客将から荊州敗走時代
曹操と袁紹が官渡で激突すると劉備は、後方攪乱の役割を受け、荊州の汝南に潜伏して黄巾の残党、劉辟を扇動し司隷の許県を狙う素振りを見せます。
しかし、曹仁が出撃して劉備と劉辟は撃破されました。
ここで劉備は、一旦袁紹の本陣に戻り、荊州の劉表と共同して曹操を討ちましょうと提言します。袁紹は許可を出し劉備に元の兵士を率いさせて、再び汝南に走らせ、今度は賊の龔都を扇動して数千人を集めました。
曹操は、蔡陽を派遣して劉備を討たせますが返り討ちに遭い戦死したので、曹操は袁紹を撃破した後に自ら劉備を攻めて撃ち破りました。
その後、劉備は荊州の劉表を頼り、荊州の新野に軍を駐屯させます。この頃、劉備は博望で夏侯惇と于禁を打ち破りました。
この時代には劉備の執拗さが光ります。荊州汝南で武装蜂起して許を狙い、失敗すると一度は冀州に帰還して、再度汝南に潜伏して武装蜂起、それでも勝てずに荊州の新野に落ち着きました。
赤壁の勝利から南郡制圧まで
劉表の客将時代の劉備は、新野から樊城に移り、軍師の諸葛孔明を配下に加え8年余りも平穏な日々が続きます。
しかし、頼りにしていた劉表が死んで、後継者の劉琮が曹操に降伏すると曹操軍がなだれ込んできました。
劉備は襄陽を通過し、長坂で曹操軍に追いつかれて、必殺妻子放棄で身軽になり、江夏太守の劉琦を頼ります。さらに呉と同盟する為に揚州の夏口に渡りました。
赤壁の戦いで曹操を破った劉備は、荊州南郡を曹操から奪還。徐州牧以来の拠点を掴みます。
この時代は劉備の生涯では珍しい平穏な時代で、移動も荊州から揚州までです。ただ、最期は安定の窮地に陥り、すんでの所で曹操の追撃をかわすなど相変わらず綱渡りが続きますが、赤壁の大勝で一息つけました。
益州攻略から皇帝即位、夷陵まで
その後劉備は、張松や法正の手引きで劉璋が治める益州に漢中の張魯討伐を口実に入り、龐統の助けを得て成都を陥落させました。
さらに、益州を守る楯の役割を果たす漢中を手中に収めようと劉備は目論見、法正や黄権、黄忠の活躍で夏侯淵を斬って漢中を制圧し、漢中王、皇帝への階段を上っていきます。
ところが、途上で荊州を任せた関羽が魏と呉の挟み撃ちに遭い、討ち死にするという悲劇が発生。劉備は長江を下り、呉を討伐すべく揚州に侵入して連戦連勝するも、
陸遜の計略で補給路が伸びきったところを火攻めにされ一網打尽にされてしまいます。
劉備は命からがら逃げのびますが、今さら成都には戻れぬと白帝城に入り、そこで病が重くなり62年の生涯を閉じたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
劉備は州単位で考えても、司隷、冀州、青州、徐州、豫洲、益州、荊州、揚州、と8つの州を何度も往来しており、流浪の傭兵隊長のあだ名がピッタリです。
曹操も生涯戦争の連続で、遠征も多くこなしていますが、それでも劉備の移動距離には、さすがに敵わないのではないかと思います。まさしく劉備は、三国時代のお散歩マスターと言ってもいいのではないでしょうか?
参考:正史三国志
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