馬超は蜀(221年~263年)の武将です。蜀に仕えていた期間は非常に短く、活躍期間も後漢(25年~220年)の時期なので、正確には後漢末期の武将が正しいと思います。
さて、馬超はマンガやゲームでは戦闘力の高い人物として知られていますが、実際には馬超は弱いと言われています。
今回は戦場における実際の馬超の姿について解説いたします。
文武両道の人物であった馬超孟起
まず、馬超がどのような人物なのか解説します。馬超は剛力無双で騎馬戦に優れていました。
だが、それだけではなく学識もあったと分かります。
諸葛亮が関羽にあてた手紙の中で馬超は次のように評価されています。
「馬超は文武を兼ね備え、勇壮、人に優れた一世の英傑でして張飛とは格好の競争相手でしょう」
この手紙の内容から、馬超は張飛と互角に渡れる人物であり、識字能力もあったと分かります。当時の武将は識字能力がゼロに等しいのが当たり前です。
典型例は蜀の武将の王平です。
彼は本当に文字を知らないので、命令文書は部下からの口頭で理解していたようです。つまり、関羽や馬超のように識字能力があった武将は非常に珍しい事例です。
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馬超の父 馬騰
馬超の父は馬騰と言います。身長193センチの大男でした。バレーボール選手のレベルですね。初平3年(192年)に董卓から征西将軍に任命されて長安に行きました。
しかし、行くと董卓は殺されて混乱に陥っていました。馬騰は義兄弟の韓遂と一緒に董卓の残党と戦闘になりますが、敗北して撤退しました。
建安2年(197年)には袁紹との連携を危険視した曹操の懐柔策により、馬騰は爵位を与えられました。
建設13年(208年)には老齢を理由に馬騰は都に来て、一族と余生を過ごしていました。ただし、馬超だけは都に行かずに馬騰の本拠地の槐里にいました。
馬超の反乱
建安16年(211年)に曹操は征西を行う決意をします。表向きは五斗米道の張魯の討伐ですが、これを口実に西方に割拠している軍閥を始末する気でいました。
危険を感じた馬超は韓遂・侯選・程銀・楊秋・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩と一緒に反乱を起こしました。
誘い出しに成功した曹操は馬超を迎え撃ちました。
馬超は曹操を捕縛するつもりでしたが、曹操の周囲を許褚が護衛していたので、近づけません。『三国志演義』では馬超と許褚の一騎打ちが行われるのですが、これは創作です。
この戦で馬超は曹操を追い詰めますが、許褚の奮戦により阻まれます。また、馬超の方も李堪と成宜が討ち死にする損害が出ました。
曹操も長期戦は出来ません。
曹操は参謀の賈詡の策を取り入れました。
メンタル力が弱い馬超
ある日、曹操は馬超と手を組んでいる韓遂を呼びました。何かと思って韓遂は曹操に会いました。
だが、曹操は適当な雑談をして帰ってしまいました。
韓遂も遠くから見ていた馬超も「?」でした。またある日のこと、曹操から韓遂に手紙が届きました。封を開けると、何が書いているのかさっぱり分かりません。
韓遂と馬超はまたも「?」でした。
馬超はこの時、韓遂に対して疑惑が生じました。
(韓遂め、曹操と内通を・・・・・・)
馬超って個人的武勇はあるのですけど、メンタル力無いのですよ。
「メンタル力・・・たったの5か・・・ゴミめ・・・」
すいません、『ド〇ゴンボール』ネタで乗り切ろうかと思いました。
ダメですか?
ダメですよね。
続けます。
結局、賈詡の策が成功して馬超たちは内部分裂を起こしました。
そこを曹操に攻められて敗れました。
馬超はどうにか逃げました。
なお、馬超の父や一族は責任をとらされて死刑にされました。
三国志ライター 晃の独り言
馬超はその後、巻き返しを図りますが、あっけなく敗れます。仕方なく張魯のもとに行きますが、身内を見殺しにしたことで重用されません。
結局、劉備に降伏して重用されるのですが、それは蜀に人材が乏しかったからです。蜀での活躍は皆無に等しく、蜀の章武2年(222年)にこの世を去りました。
47歳の生涯でした。馬超は個人プレイに関しては強いのですが、みんなで協力することが苦手でした。
だからメンタルが弱かったのです。
※参考文献
・林田慎之介『人間三国志豪勇の咆哮』(初出1989年 のち集英社文庫 1992年)
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
・渡邉義浩『三国志 (図解雑学)』(ナツメ社 2000年)
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