馬岱は馬超と蜀に降ったのに何故龐徳だけ漢中に残った?

2018年10月28日


 

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馬超と龐徳

 

馬超(ばちょう)には自分の両腕と言えるほど信頼していた人物がいたのをご存知でしょうか。その二人の人物の名前は馬岱(ばたい)龐徳(ほうとく)です。しかし馬岱は馬超と一緒に蜀へ仕えましたが、龐徳は曹操に仕える事になります。どうして龐徳は馬超と一緒に蜀へ来なかったのでしょうか。龐徳の活躍を紹介しながら彼が蜀へ来なかった理由を紹介していきたいと思います。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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馬騰軍一番の強さを誇った龐徳

馬騰軍一番の強さを誇った龐徳

 

龐徳は馬超の部下となる前、馬超の父・馬騰(ばとう)の部下として仕えていました。龐徳は馬騰の部下として馬騰の領内へ侵攻してくる異民族を撃退したり、曹操(そうそう)の要請を受けて袁家の残党討伐戦に参加して戦功を挙げて活躍していました。この結果、龐徳は馬騰軍の中で一番の勇将として知られることになります。その後馬騰が曹操に殺害されると馬超へ仕える事になります。

 

 

 



連戦連敗の馬超

連戦連敗の馬超

 

龐徳は馬超に付き従って曹操軍と幾度も戦います。しかし馬超は曹操軍へ戦を挑むたびに何度も敗北。龐徳も馬超の部下として曹操と戦をしますが、勝ち戦を得ることなく何度も敗北することになります。その後龐徳は馬超にしたがって漢中の軍閥・張魯(ちょうろ)へ身を寄せることになります。

 

 

北伐の真実に迫る

北伐  

 

 

馬岱は馬超と一緒に蜀へ。龐徳は曹操に仕える。

馬岱は馬超と一緒に蜀へ

 

馬超はその後張魯にお願いして曹操の領土となっている自分の土地を取り戻すために幾度も北伐を開始。しかし馬超は曹操軍に勝つことができずに敗北してしまうのでした。そんな時、馬超は「俺の仲間になってよ」と劉備(りゅうび)から誘いを受け、張魯の元を離れて劉備の元へ向かいます。

 

このとき、馬超の従兄弟であった馬岱は馬超と一緒に劉備の元へ向かいます。しかし龐徳は漢中に残り、漢中が曹操の領土なった時、曹操へ仕える事になります。どうして龐徳は馬超と一緒に蜀へ行かなかったのでしょうか。

 

 

 

龐徳が蜀へ行かなかった理由その1:馬超の負け癖に辟易していた??

馬超の負け癖に辟易していた龐徳

 

馬超は曹操を倒すため何度も執拗に攻撃を挑みます。しかしその度に馬超軍は敗北することになり、馬超軍を率いる龐徳も何度も敗北を経験することになったでしょう。そのため龐徳は馬超とこのまま一緒にいてもまた負け続きの戦いを強いられる事に嫌気が差してしまい、馬超の元を離れてしまったのではないのでしょうか。

 

 

龐徳が蜀へ行かなかった理由その2:未来への展望がない事に絶望した??

未来への展望がない事に絶望した龐徳

 

龐徳が蜀へ行かなかった理由その2としては馬超に従って劉備の元へ行っても未来への展望がないと考えていたからではないのでしょうか。馬超が劉備の元へ向かった時は、劉備が蜀を奪ったばかりでまだまだ発展途上の状態でした。龐徳は馬超と一緒に発展途上の国・蜀へ向かっても未来への展望が描きにくいことから、超強大で天下の半分以上を支配していた曹操の元へ身を寄せたのではないのでしょうか。

 

 

龐徳が蜀へ行かなかった理由その3:馬超に不満をもっていた!!

馬超に不満をもっていた龐徳

 

龐徳が蜀へ行かなかった理由その3としては馬超と仲が良くなかった事が考えられるのではないのでしょうか。龐徳は馬超と一緒に各地を転戦して武功を挙げ続けていましたが、あまり報われていなかったようです

 

正史三国志によれば龐徳が馬超から何かもらったような記載は一切ありません。そのためもしかしたら龐徳はこんなにがんばっているのに正当な評価をしてくれない馬超に不満を持ち、馬超が蜀へ向かうと知った時、彼は馬超と縁を切る決断をしたのではないのでしょうか。

 

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レンの独り言

 

レンはこれら三つの理由から龐徳が馬超に付き従わなかったと思っています。ではどうして馬岱は馬超に付き従ったのか。この理由については憶測ですが、レンはこのように考えます。

 

馬超は龐徳や他の将軍には冷く、最後の生き残りの身内・馬岱には甘かったのではないのでしょうか。馬超が馬岱に甘かった理由として考えられるのは、馬超が亡くる間際の遺言から推測することができます。馬超は劉備へ「私の一族は、ほとんど曹操に殺されてしまいましたが、従弟の馬岱のみが生き残っています。

 

馬氏の祭祀を守らせる者として陛下にお預けします」と残しています。わざわざ馬超が劉備へこのような遺言を残す必要なんてありません。ここから考えられることは自分が亡くなった後、馬岱を引き立ててほしいとの要求からこのような遺言を残したと考えれば、馬超が身内に甘かったと推測することができるのではないのでしょうか。そしてこのことから馬超は身内である馬岱には甘く優遇し、身内ではない龐徳は冷遇されていたと考えることができるのではないのでしょうか。

 

【参考】 正史三国志・蜀書など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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