今回も前回に続き、卑弥呼(ヒミコ)の死の謎について迫っていきます。
予告通り、作家・松本清張氏の「卑弥呼殺害説」への異論として、
保坂俊三氏の意見を参考にしながら、書いていきます。
1,卑弥呼は他殺ではない?
ここでおさらいです。
前回の「清張・卑弥呼殺害説」と言いますのは、
邪馬台国の女王・卑弥呼が、「狗奴国(クナコク)」との戦の敗戦の責任を取らされ、
民衆、取り分け、邦衆の首長たちの意向によって、処刑されたという説です。
しかし、保坂俊三氏はその説に疑問を呈します。
理由は、そもそも狗奴国との戦には負けていないからだというのです。
負けていないなら、処刑される所以はないということです。
理由は、中国大陸の最大勢力「魏」王朝の後ろ盾があって負けるはずがないというのです。
武器も魏から与えられたはずです。もし負けたら、王国は滅びているはずです。
古代において、どの世界でも、負けるということは、
相手の国の奴隷になることを意味していたはず、というのです。
又、狗奴国は、辺境の国でした。経済的には貧しい国のはず。
その国に、魏に援助を受けた「邪馬台国(ヤマタイコク)」が負けるはずがないというのです。
これは私見も入りますが、邪馬台国が狗奴国に負けていたら、
卑弥呼死後、男同士の王位継承を巡り、内部の権力争いをしている余裕はなかったでしょうか。
さらに、後に女王・台与(トヨ)の治世で邪馬台国は復興したことになっていますが、
それもあり得ない事実になりそうです。
負けていれば、このような結果にはならないでしょう。
王国は敗戦後にすぐに消滅していたはずですね。
2,しかし、卑弥呼の死は戦争関連死だった?
ここまでで、清張氏による「卑弥呼他殺説」の根拠が弱いのも頷けます。
しかし、他殺の可能性が消えた訳ではありません。
さらに、狗奴国との戦が原因の死の可能性は高いのではないでしょうか?
『魏志倭人伝』にある卑弥呼の死の記述は、狗奴国との戦の最中という記述の直後なのですから。
ということは、心労よるショック死だった可能性もあります。
関連記事:鬼道の使い手である卑弥呼の女王即位と三国志の関係性
3,再考「卑弥呼・他殺説」!
ただ、他殺説の真偽は謎に包まれたままですね。
しかも、前回の記事の「清張説」でも指摘された「卑弥呼以って死す」
という不可解な文脈の問題は解決に至っていません。
「何を以て」(何が原因で)死んだのか分からないのです。
「保坂説」では、この謎については触れられていません。
つまり、卑弥呼の死に謎がつきまとったままなので、他殺説の可能性も残されているということです。
そこで、考えられる説をいくつか紹介したいと思います。
①まず、政権内部の犯行説です。
卑弥呼死後の後継で争いが起きたことを考えると、暗殺もあり得たかもしれません。
例えば、卑弥呼の「鬼道」(キドウ)の力による求心力を
自身の力にして権力を持ちたいと思う者が出てきても不思議ではないのではないでしょうか?
そうすると、犯人は政権内部の者でしょうか?
王弟でしょうか?
それとも、特に怪しく感じられるのは、
「魏」への大使役として大陸にも渡った難升米(ナシメ)ではないでしょうか?
女王の代役でもあり、「魏」から与えられた軍旗を譲り受けていたと言いますから、
総理大臣や大将軍と言ってよい役回りですね。権力を狙いやすい立ち位置であったといえるでしょうか。
②邦衆の首長たち、あるいは、民衆の犯行か?
前々回の記事の『卑弥呼はどこから来たの?』で、
卑弥呼は、朝鮮半島の南部にあった複数の「韓」の国の一つの王族
(「辰」王家)かもしれないとの説を取り上げました。
それを事実だった場合、反韓意識が働いた者たちによる
暗殺だったというのも考えられるかもしれませんね。
だとしたら、容疑者として浮上するのは、卑弥呼を女王として合議で認めた、
「邪馬台国」を含めた「倭国連合国」を形成する邦衆の首長たちの誰かとも考えられないでしょうか?
特に邦衆の首長たちの中には、生粋の倭国人がいて、
海を渡った朝鮮半島の国からの人間を王として迎えるのは如何なものかと
疑問を呈する者もいても不思議ではないのではないでしょうか?
あるいは、民衆たちの中に、反韓意識を持った人々がいて、
その中に暗殺を実行した者がいたとも考えられそうです。
4,あるいは卑弥呼は自殺だった?
これは、かなり私的な想像の域に入りますが、
自殺!とも考えられないでしょうか?
というより、「死に花を散らす」とか「人生の幕引きを自らの手で下す」
という表現が適当かもしれません。
こういう話も考えられないでしょうか?
邪馬台国の女王・卑弥呼は、狗奴国との度重なる戦での心労の上に、
老齢も加わり、精神的に限界と感じていました。さらに鬼道の力も弱まっていると感じていました。
丁度、狗奴国との戦が劣勢になっていた状況でもありました。
精神的にも追い詰められていたでしょう。
しかし、「鬼道」特有の、神や祖霊との交信の儀式はやめるわけにはいかなかったのです。
卑弥呼にとって、女王として民衆からの絶大の信頼を勝ち得たのも、
その「鬼道」という特殊能力があったればこそでした。
国の行く末を、その力で見定め、平和で、
食や居住の環境を安心して保てるように、民を指導してきたのです。
鬼道を辞めることは、女王を辞めることであり、
民の暮らしの将来の安心を願うことも投げることになります。
特に狗奴国との戦の最中で、劣勢状況ともなれば、ますます、
その場を離れることはできなくなったのです。弟にも止められるも辞めることはできませんでした。
しかし、人には寿命があります。ある時、最期の交信を迎えたのです。
最期には親愛なる弟に見守られながら死を迎えました。
卑弥呼は、自身の死後の政治を、弟か難升米の采配に任せたかったでしょう。
おそらく、卑弥呼の死の直後は、死を隠したのでしょうか。
狗奴国との戦の最中だったためです。
弟と難升米が、卑弥呼のお告げと表向きは称して取り仕切ったでしょう。
そして、戦には勝ったのです。
その後、卑弥呼の死が明らかにされます。
「以て死す」とは、狗奴国との戦が大きな原因なのでしょう。
その後の邪馬台国の王位継承までは、
弟や難升米に決められる余力もなく、邦衆たちの合議に委ねられました。
結果、ある男の王が立ちましたが、民衆には受けいられず、内部抗争に発展したのでしょう。
そして、台与(トヨ)の治世へ受け継がれていったのです。
(了)
参考文献
『清張 古代遊記 吉野ヶ里と邪馬台国』(NHK出版)
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