黄巾の乱が起きたことで、乱制圧のために手を組んだ宦官と外戚でしたが、
結局のところ、二勢力の間の権力闘争はなくなりませんでした。
黄巾の乱鎮圧後、再び両者は対立を深めていきます。
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失望した曹操は故郷に引きこもる
あるとき、曹操は霊帝に会って、意見を述べる機会がありました。
政治腐敗を批判する気持ちで、こんなことを言います。
「三公からの上奏は、貴族や外戚の顔色をうかがっているだけです」
三公とは、司徒・司空・大尉の3つの役職のことで、日本に置き換えれば
太政大臣・左大臣・右大臣といったところです。
曹操は、官僚たちが好き勝手をしていることを、皇帝に直訴したのです。
しかし、その意見は顧みられることはありませんでした。
曹操はがっかりして故郷へ帰ってしまいます。
霊帝の死後
189年4月、霊帝は33歳の若さで病死してしまいます。
世継ぎを指名せずに亡くなってしまったため、残された二人の皇子を巡って
後継者争いが勃発します。
簡単に整理してみましょう。
・劉弁(りゅうべん) のちの少帝
母:何皇后
勢力:外戚(何進)
目標:十常侍の排除→袁紹と手を組む
・劉協(りゅうきょう) のちの献帝
母:王美人(故人)
勢力:宦官(十常侍)
目標:何進の排除→何皇后にわいろを贈る
そしてその後の流れですが、
- 劉弁が少帝として即位(外戚優勢)
- 何進と袁紹は十常侍を一掃しようとする
- 何皇后に阻まれる
- 十常侍が何進を殺害(宦官優勢)
- 袁紹が宦官を大虐殺(外戚・宦官共倒れ)
という図式になります。
その後、何進が生前に、宦官との争いに備えて助力を頼んでいた董卓が、
洛陽へ到着します。
董卓は、外戚と宦官が共倒れになったこのチャンスを逃さずに、
宮廷のトップについてしまうのです。
袁紹は、おいしいところを全部董卓に持って行かれてしまいました。
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