三国志は古代中国の物語ですので、当然、その時代の地名が頻繁に登場してきます。中でも特に目にすることが多いのが『州(しゅう)』の名前でしょう。
劉備(りゅうび)が関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)と義兄弟の契りを交わした涿県楼桑村(たくけんろうそうそん)は当時の兗州(えんしゅう)にあり、彼が皇帝として支配した蜀(しょく)の国は州で言えば益州(えきしゅう)という地にあたります。
三国時代の行政区画はどのように分けられていたのでしょうか?
そして、『州』とはどんな規模の行政区画だったのでしょうか?
『州』は現代日本の都道府県に当たる?
中国において『州』という行政区画が用いられるようになったのは、三国時代より1200年程前の周(しゅう)の時代にさかのぼることができます。当時は中国全土を九つの州に分け、これを『九州(きゅうしゅう)』と総称しました。
三国時代より200年程前、後漢(ごかん)の時代になると、行政区画は州・郡(ぐん)・県(けん)の三級制が敷かれるようになります。州は行政区画の最も大きな単位で、現代の日本で言うなら『都道府県』に当たると言えるでしょう。後漢の時代には13の州が設置されましたが、『九州』という呼称は中国全土を意味する言葉として、後の世でも用いられています。
三国時代の14州について
三国志の舞台となる三国時代には、中国全土は
・幽州(ゆうしゅう)
・青州(せいしゅう)
・冀州(きしゅう)
・并州(へいしゅう)
・徐州(じょしゅう)
・兗州(えんしゅう)
・豫州(よしゅう)
・司州(ししゅう)
・雍州(ようしゅう)
・涼州(りょうしゅう)
・揚州(ようしゅう)
・荊州(けいしゅう)
・益州(えきしゅう)
・交州(こうしゅう)
の、全14州に区分されていました。各州がどのような場所にあったかについては、地図をご参照ください。三国鼎立が成立した時代、魏は首都である洛陽のある司州の他、幽・青・冀・并・徐・兗・豫・雍・涼の十の州を支配下においていました。
揚州の建業を都とした呉は、その他荊州と交州、合わせて3つの州を治めました。当初、荊州は益州の成都を都とした蜀の支配下にありましたが後に呉に奪われており、最終的には益州ひとつだけをその領土としました。
現在も用いられている『州』
三国時代以降も、『州』は行政区画を表す名称として用いられ続けています。三国時代から約300年後の隋(ずい)の時代、州という単位は一時的に廃止されましたが、次の唐の時代には、道(どう)の下にあたる区分の名称として復活しました。現在の中国、中華人民共和国でも、『州』の名称は『省(しょう)』などの第一級行政区の下にあたる少数民族の自治州として使われています。