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この記事の目次
韓遂は羌族と組み軍事強化
羌族の血を引く、混血の馬騰や、馬超、漢民族の軍閥である、韓遂は、羌族と手を組む事で軍事力を強化します。騎馬民族の羌族は、彼等西部軍閥の手足として働き、曹操を追い詰めるなど、その時々で優れた働きをなしました。この頃から、羌族も、自分の利益によって魏についたり、蜀についたりと三国志のパワーバランスに少なからぬ影響を与える存在になっていくのです。
五胡十六国時代に国を建国する羌族
三国志の時代を終わらせた司馬炎(しばえん)の晋も30年あまりで内乱状態になります。これにより再び、羌族の動きは活発になります。
この時代は羌族ばかりではなく、周辺の異民族の動きは全て活発、彼等は中国大陸に押し入り、銘々で国を立てるなど、やりたい放題をします。五胡(胡とは異民族という意味)が十六もの国を次々に立てては、滅びていったので、この時代を五胡十六国時代と言います。羌族の一派である、南安赤亭羌の酋長である姚萇(ようちょう)は、支配下にいた前秦から独立して西暦384年に後秦を建国します。
しかし、国は維持できず、たった33年で、東晋の劉裕(りゅうゆう)に後秦は滅ぼされてしまいます。
西夏を建国する羌族
その後、長い間、羌族は争乱を繰り返していましたが、部族の中のタングートが次第に強盛になってきます。西暦1038年にタングートから英雄、李元昊(り・げんこう)が登場。弱体化していた北宋を圧迫する形で西夏を建国します。しかし、繁栄した西夏は中国風の文化を取り入れて、弱体化します。100年程すると、女真族の金が北宋を滅ぼし、西夏は、金に服属しました。
チンギスハーンに滅ぼされ現在に至る羌族
しかし、13世紀に入ると、同じ遊牧民の蒙古が、急激に勢力を拡大、金を征服した蒙古は、その勢いで西夏も滅ぼしてしまいます。これにより羌族は、歴史から消え、以後目立った動きはありません。このように羌族は、古くから漢民族に知られ、漢民族の状態により仲間になったり、敵対したりしながら、中国の歴史に大きな影響を与えている民族であるという事が分かります。