

三国志においては、馬騰や(ばとう)や董卓(とうたく)の手足になり、勇猛な騎馬民族を率いて、漢を苦しめる羌族ですが、彼等はいつ頃歴史に現れてきたのでしょうか?
三国志を彩るもう一つの民族である羌族について勉強しましょう。
この記事の目次
漢民族には古くから氐(てい)族と知られた羌族
羌族は古くから中国の歴史書には出てきます。しかし、書物にしっかり記載されるようになったのは、後漢書からのようです。羌は三苗の一族、姜(きょう)氏の一種だと記録されています。苗は、漢民族の聖人、禹(う)の逸話にも出てくるので相当に大昔から、漢民族とは関係があったもようです。
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紀元前五世紀に英雄、無弋爰剣(むよくえんけん)が登場
苗族の支流の姜氏は、紀元前5世紀に戎族の英雄、無弋爰剣が出現して一族を纏めるようになり羌族として勢力を築きます。しかし、当初は匈奴(きょうど)の方が勢力が強かった為に、羌族は匈奴になびいて、漢には背いていました。
漢の武帝により匈奴が払われると漢につく
しかし、前漢の武帝は、充実した国力を背景にそれまで匈奴に贈り物をしていた屈辱外交を破棄し、夥しい死者を出しながら匈奴の勢力を西に追い払います。それを見た羌族は、漢に服属するようになり、漢の将軍である、護羌校尉に従って生活するようになります。が、遊牧民だけあり、漢が取るに足らないと見るや、何度も反乱を起しその度に鎮圧され、再び服従するという事を繰り返します。
後漢王朝の混乱で再び羌族が活発化する
黄巾の乱そして、外戚と宦官の争いにより後漢が衰えると、再び、羌族に反乱の様子が現れます。
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韓遂は羌族と組み軍事強化
羌族の血を引く、混血の馬騰や、馬超、漢民族の軍閥である、韓遂は、羌族と手を組む事で軍事力を強化します。騎馬民族の羌族は、彼等西部軍閥の手足として働き、曹操を追い詰めるなど、その時々で優れた働きをなしました。この頃から、羌族も、自分の利益によって魏についたり、蜀についたりと三国志のパワーバランスに少なからぬ影響を与える存在になっていくのです。
五胡十六国時代に国を建国する羌族
三国志の時代を終わらせた司馬炎(しばえん)の晋も30年あまりで内乱状態になります。これにより再び、羌族の動きは活発になります。
この時代は羌族ばかりではなく、周辺の異民族の動きは全て活発、彼等は中国大陸に押し入り、銘々で国を立てるなど、やりたい放題をします。五胡(胡とは異民族という意味)が十六もの国を次々に立てては、滅びていったので、この時代を五胡十六国時代と言います。羌族の一派である、南安赤亭羌の酋長である姚萇(ようちょう)は、支配下にいた前秦から独立して西暦384年に後秦を建国します。
しかし、国は維持できず、たった33年で、東晋の劉裕(りゅうゆう)に後秦は滅ぼされてしまいます。
西夏を建国する羌族
その後、長い間、羌族は争乱を繰り返していましたが、部族の中のタングートが次第に強盛になってきます。西暦1038年にタングートから英雄、李元昊(り・げんこう)が登場。弱体化していた北宋を圧迫する形で西夏を建国します。しかし、繁栄した西夏は中国風の文化を取り入れて、弱体化します。100年程すると、女真族の金が北宋を滅ぼし、西夏は、金に服属しました。
チンギスハーンに滅ぼされ現在に至る羌族
しかし、13世紀に入ると、同じ遊牧民の蒙古が、急激に勢力を拡大、金を征服した蒙古は、その勢いで西夏も滅ぼしてしまいます。これにより羌族は、歴史から消え、以後目立った動きはありません。このように羌族は、古くから漢民族に知られ、漢民族の状態により仲間になったり、敵対したりしながら、中国の歴史に大きな影響を与えている民族であるという事が分かります。









