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この記事の目次
韓非子が生まれたきっかけ
筍子の下で学んだ後、故郷の韓に帰った韓非は、当時最弱とされていた祖国の現状を嘆き、幾度も王に提言しようとしますが、王からは無視されてしまいます。王に提言を聞き入れられなかった韓非は己の不遇を嘆き、せめてその思いを書き残そうと考えました。こうして執筆されたのが『韓非子』とされています。
韓非と秦王・政との出会い
韓非は隣国である秦への使者に抜擢されます。この頃、韓は事実上秦の属国となっていましたが、秦国内では韓の面従腹背を理由意を完全併呑する議論が起こっていました。韓非はその弁明の使者として秦に使わされたのでした。
秦王である政(後の秦の始皇帝)は韓非の書き起こした書物を読んだことがあり、これを機に韓非を召し抱えたいと考えます。しかし、それに待ったをかけたものがいました。それこそが、かつての韓非の学友である李斯でした。実は韓を併呑する議論が秦王朝で起きていたのも、彼の提言が原因でした。
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李斯は学友・韓非の才能を恐れる
李斯は韓非の才能を恐れ、政が彼を召し抱えればきっと自分の立場が危うくなると考えます。当時、秦国内では外国人に対する反感が高まっていました。この風潮を背景に李斯は秦王に讒言し、韓非は囚われてしまいます。結局、韓非は李斯によって届けられた毒を獄中であおり、死んでしまいました。不遇な生涯を送った韓非でしたが、その書物は現代にも伝えられ、影響を与えています。
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