キングダム時代に活躍した法家 商鞅と韓非はどんな人?

2015年7月14日


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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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韓非子が生まれたきっかけ

韓非 キングダム

 

筍子の下で学んだ後、故郷の韓に帰った韓非は、当時最弱とされていた祖国の現状を嘆き、幾度も王に提言しようとしますが、王からは無視されてしまいます。王に提言を聞き入れられなかった韓非は己の不遇を嘆き、せめてその思いを書き残そうと考えました。こうして執筆されたのが『韓非子』とされています。

 



韓非と秦王・政との出会い

李斯

 

韓非は隣国である秦への使者に抜擢されます。この頃、韓は事実上秦の属国となっていましたが、秦国内では韓の面従腹背を理由意を完全併呑する議論が起こっていました。韓非はその弁明の使者として秦に使わされたのでした。

 

秦王である政(後の秦の始皇帝)は韓非の書き起こした書物を読んだことがあり、これを機に韓非を召し抱えたいと考えます。しかし、それに待ったをかけたものがいました。それこそが、かつての韓非の学友である李斯でした。実は韓を併呑する議論が秦王朝で起きていたのも、彼の提言が原因でした。

 

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李斯は学友・韓非の才能を恐れる

口論する韓非と李斯

 

李斯は韓非の才能を恐れ、政が彼を召し抱えればきっと自分の立場が危うくなると考えます。当時、秦国内では外国人に対する反感が高まっていました。この風潮を背景に李斯は秦王に讒言し、韓非は囚われてしまいます。結局、韓非は李斯によって届けられた毒を獄中であおり、死んでしまいました。不遇な生涯を送った韓非でしたが、その書物は現代にも伝えられ、影響を与えています。

 

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石川克世

石川克世

三国志にハマったのは、高校時代に吉川英治の小説を読んだことがきっかけでした。最初のうちは蜀(特に関羽雲長)のファンでしたが、次第に曹操孟徳に入れ込むように。 三国志ばかりではなく、春秋戦国時代に興味を持って海音寺潮五郎の小説『孫子』を読んだり、 兵法書(『孫子』や『六韜』)や諸子百家(老荘の思想)などにも無節操に手を出しました。 好きな歴史人物: 曹操孟徳 織田信長 何か一言: 温故知新。 過去を知ることは、個人や国家の別なく、 現在を知り、そして未来を知ることであると思います。

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