馬稷(ばしょく)と言えば、第一次北伐で、街亭を守るように孔明に言われながらも、副官王平(おうへい)のアドバイスを無視し麓ではなく山上に布陣した為に魏将、張郃(ちょうこう)に包囲されて水を断たれ敗北した人物です。
街亭を奪われた蜀軍は、挟み撃ちを恐れて退却し、馬稷はその罪で、孔明に処刑された事になっています。「これが泣いて馬稷を斬る」ですが、これには異説があるのをご存じでしょうか?
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この記事の目次
馬稷の最期には、3つの異なる記述がある
馬稷の最期については、少しずつ内容が異なる3つの記述があります。最初に馬稷伝では、「亮、進むに拠るところ無く、軍を退きて漢中に還る。謖、獄に下されて物故す。亮、これがために流涕(りゅうてい)す」とあります。
ここでは、馬稷によって街亭が失陥してしまう事で、亮(孔明)は進むに拠点を失い軍を退いて漢中に帰り、馬稷はその敗戦の責任で牢獄に下され、物故した。孔明は、その為に涙を流したという事になっています。
物故というのは、余りいい意味ではなく、すでに亡くなっている人の意味。過去の因果により死が与えられたという意味で、斬首と書いてはいないので、病死や自殺の可能性もありますが、敗戦の責任で普通ではない不名誉な死を遂げたとボカして書いている感じです。
諸葛亮伝では、もっとダイレクトに・・
ところが、馬稷伝ではない諸葛亮伝では、こういうボカしはありません。「亮、西県の千余家を抜きて漢中に戻り、謖を戮(りく)して以て衆に謝す」孔明は、西県の千余の家を連行して漢中に帰還し、馬稷を殺して皆に謝ったと言う意味です。戮は、斬り殺すという事を意味しています、物故なら病死も獄死も自殺もあり得ますが戮なら斬り殺されたと考えて間違いありません。
疑惑の向朗(しょうろう)伝・・・
ところで、馬稷の最期については、同僚で仲の良かった向朗の伝にも出ます。「朗、もとより馬謖と善し。謖、逃亡し、朗、情を知れども挙げず。亮、これを怨み、免官せられて成都に戻る」ここでは、向朗は、馬稷と親しく、馬稷は逃亡し、向朗は事情を知っていたけども敢えて報告しなかった、孔明はこれを恨んで向朗を首にして成都に戻るとあります。
馬稷は、戦場から逃げたのか、獄から逃げたのか?
一般には、向朗は、戦場から逃げた馬稷を見逃して報告せず孔明に仕事に私情を挟んだとして一時クビになったとされています。しかし、向朗は街亭にいたのではなく、漢中にいた事が史書には見えます。つまり、向朗は馬稷が街亭から逃げたのを黙認する事は出来ません。何故なら彼は街亭にはいなかったからです。しかし、街亭で敗戦して漢中に帰還し獄に繋がれた馬稷であれば、向朗は、馬稷が獄から逃げるのを黙認する事が可能なのです。
馬稷は、戦場から逃げたのではなく、牢獄を破り二重に罪を犯した?
つまり、馬稷は街亭の戦場から逃げたのではなく、敗戦後に漢中に帰還し、そこで罪に問われて入獄していたのを脱獄した事になります。
これだと、敗戦に加えて脱獄の罪を加える事になります。もしかすると、孔明は敗戦ばかりか脱獄まで図った馬稷をそのまま成都まで連れては士気に関わると考えて、漢中で斬首したのではないでしょうか?
向朗は、どうして馬稷逃亡を黙認したのか?
向朗伝には、朗、「情を知れども挙げず」とあります。この情とはなんでしょうか?
孔明は、馬稷の敗戦を許さず必ず殺すだろう、それを黙って見るにしのびないから、逃亡するのを見逃そうという同情ではないでしょうか?
馬稷は脱獄により死を回避できなくなった?
しかし、向朗の情は、逆に馬稷を追い詰める事になりました。せっかく逃げたのに、不運にも馬稷が再び捕まってしまうのです。孔明は、この事で向朗を恨んだとされていますが、これは不思議な表現です。
軍律を破った人間を恨むとは変でしょう?
ただ、粛々と法に照らし脱獄の幇助で処罰すればいいのです。でも、孔明は向朗を恨んでクビにしたとあります、これはどう考えればいいのでしょう?
孔明は、馬稷を泣いて斬るつもりは全然無かった?
ここから浮かびあがるのは、孔明は実は馬稷を殺すつもりはなく、獄に降して庶民に落すなりで決着をつけたかったのではないか?という疑惑です。孔明とすれば、馬稷が大人しく獄に入っていれば、命までは取らないつもりが向朗が馬稷を見逃した為に脱獄が成功し、結果、馬稷を斬るしか事態の収拾のしようが無くなってしまった。そこで、孔明は向朗を恨むという表現になったのではないでしょうか?
向朗は、後に許されて出世している
一度はクビになった、向朗ですが、数年後には光禄勲(こうろくくん)として復帰して、孔明の没後は重職を歴任する事になります。さて、孔明は、どのような考えで向朗を恨んだのでしょうか?
殺さないつもりの馬稷を殺す原因を造ったからでしょうか?
それとも、私情を優先して処刑が確定している馬稷を逃がしたから??
本当の事は、馬稷と孔明のみしか分からないかも知れません。
三国志ライター kawausoの独り言
身内でも厳しく処断するという美談にされがちな「泣いて馬稷を斬る」ですが、もしかして、孔明には最初は馬稷を斬るつもりは無かったのかも知れません。馬稷の悲観と親友だった向朗の同情が、逆に馬稷を殺す事に繋がってしまう。だとすれば、歴史とは何と皮肉なものでしょうか!
本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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