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孔明が五丈原で亡くなると遺言に従う
孔明が五丈原で亡くなると、彼は孔明からの遺言で「自分の死後は、軍を撤退させるように」と伝えられました。姜維(きょうい)や楊儀など主だった武将は撤退することに賛成します。しかし魏延が反対する可能性が高いため、費禕は彼の陣中を訪れ説得を行います。魏延は、諸将の不安通り、彼の説得を聞き入れず、撤退に猛反対します。そのため費禕は魏延を残して、撤退を開始します。魏延は本隊が自分の軍勢を残して、撤退の準備をしていることに激怒し、本隊より先に撤退して、撤退する道を破壊し、本隊の撤退を妨害します。費禕は、撤退する道が魏延により破壊されている事を知り、魏延の軍勢を打ち破り、彼を捕縛し、処刑することでこの事件を収めるのです。
蜀の三代目丞相として、政権を支える
費禕は、蒋琬が蜀の政権のトップに立つと、尚書令(皇帝の文章を管理する部署)に任命され、共に蜀の政権を支えていきます。費禕の尚書令時代に彼の優秀さを伺う事ができるエピソードがあったので紹介します。
仕事がバリバリできる男
尚書令の職はかなりの激務でありましたが、費禕は難なくこなし、暇を見つけては博打や宴会などを催していたそうです。費禕の友達である董允は、彼の行動を見て自分も彼の行動を真似したそうです。しかし、たった数日で仕事がどんどんたまっていき、処理ができなくなってしまい、彼は「自分と費禕の能力の差がこんなにあるとは、思わなかった。一日中仕事をしていても全く仕事が減らない。私は彼の足元にも及ばない」と周りに語ったそうです。この事から分かると思いますが、費禕は、非常に優れた事務能力を備えておりました。そんな彼は、蒋琬が持病の病により亡くなると蜀のトップとなり、政権を支えるべく奮闘します。
費禕がトップになった翌年、魏が蜀に侵攻
費禕がトップになった翌年、魏が大軍を率いて、蜀に侵攻してきます。彼が総指揮を取り、王平(おうへい)と協力して魏軍を打ち破ります。費禕はその後、漢中に駐屯し、軍事・政治・外交全てを取り仕切り、蜀の国力増強に努めます。そんな中、姜維は費禕に「蜀の国力はだいぶ増強され、北伐を再開したい」と申し入れます。
姜維の提案を却下する費禕
しかし費禕は「丞相(孔明の事)ですら魏を倒すことはできなかったのに、どうして我らが、倒すことができようか」と姜維(きょうい)の提案を退けます。軍事に重きを置くより、内政に注力したため、年々国力は増加していく一方でしたが、費禕は悲劇に襲われます。魏の将軍である郭循(かくじゅん)が投降を申し入れ、費禕は快く受け入れ、宴会を催します。
費禕の最期
彼は軽く酔ったところを郭循に斬り殺されてしまうのです。郭循はすぐに捕えられて、処断されますが、費禕の傷は深く、亡くなってしまうのです。彼の死後、姜維(きょうい)らが国政を握り、連年北伐を行います。そのため、国力は年々減っていき、ついには魏に侵攻されて、蜀は費禕の死後、約20年で滅亡してしまうのです。
三国志ライター黒田廉の独り言
費禕は政治家として非常に優秀でしたが、度胸の据わり方もすごかったそうです。彼の度胸のすごさが分かるエピソードをご紹介して今回は終わりたいと思います。魏が蜀に侵攻し出陣前の慌ただしい時に、囲碁仲間である来敏(ライビン)が彼の元にやってきて「あなたとしばらく会える機会が無いので、囲碁の決着をつけようじゃないか」と時に申し入れます。費禕はうなずき、囲碁が開始されます。彼らの周りを、兵士や伝令たちが慌ただしく走り回っているのを見て来敏がついに「あなたを試すために、勝負を申し入れたのだが、あなたの肝の太さなら、総指揮官として十分にやっていけるため、なんの心配もいらないな」と彼に伝え、来敏は去っていきます。費禕は来敏の予想通り、魏軍を打ち破り、魏の侵攻から蜀をしっかりと守りきったのです。出陣前の忙しい時に、遊ぼうぜと言う来敏はどうかしていると思いますが、周りを気にせず、囲碁に集中できる費禕の度胸の据わり方のすごさがうかがえるエピソードでした。