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勢いに乗る孫権を諫める
孫権は赤壁の戦いで勝利を収めます。孫権はこの勢いに乗って合肥へ進軍を開始。彼は合肥に着くと自ら騎兵を率いて、他の諸将と共に先頭に立って突撃しようとします。張紘は合肥の戦いに参加しており、孫権が自ら兵を率いて突撃しようとしていると聞き、急いで本陣へ向かいます。彼は本陣に着くと孫権に「大将たるもの、本陣でどっしりと構えているものです。前線で戦うのは武将達に任せなさい。」と諫めます。孫権は張紘の意見を聞き、自ら陣頭に立って突撃する事を中止します。
秣淩に都を移すべし
張紘は合肥の戦いの後、孫権に「秦の始皇帝は金陵(きんりょう)の地域に『王者の気がこの地に立ち上っている。』と聞き、この地の名前を金陵から秣淩(まつりょう)へ変更させました。しかし現在も王者の気は残っており、この秣淩に都を移すべきであると考えます。」と進言。孫権はこの進言を受け入れ、秣淩に都を移します。その後この秣淩の名を建業に変え、呉の首都として大いに栄える事になります。またこの地は呉が滅んだ後、東晋・宋・斉・梁・陳の五つの王朝の首都として栄える事になります。
孫権に遺言を残す
張紘は首都建業に孫権の家族を迎えに行く途中に、病を発病し亡くなります。彼は危篤状態に陥った時、孫権へ遺言を残します。この遺言には「君主として広く賢才を求め、諫言を受け入れ、感情と欲望しっかりと抑えなくてはなりません。」と手紙を書き記し、一緒に同行していた息子に手紙を託します。孫権は張紘が書いた手紙を見て大いに悲しみ、涙を流したそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
孫家を支えた賢才の一人である張紘を紹介しました。彼は三国志演義ですと、張昭と共に優れた才能をもっていた事から「江東の二張」と称されている賢才です。彼は主に内政面で孫家を支え、孫呉の礎を築いた臣と言えます。また彼が居なければ建業に都が移される事もなく、孫呉滅亡後の歴代王朝の都も変わっていたかもしれませんね。