三国時代にも「ザ・たっち」は存在した?後漢時代に存在した双子についての記録が凄い!

2016年3月21日


 

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芥川龍之介

 

 

史書ではよくその人物の兄弟姉妹のことが紹介されますが、ふと疑問に思うのが「双子や三つ子はいなかったのか?」ということ。中国四千年の歴史の中で、まさか誰一人としていなかったなんてこと、ないですよね。

 

それを調べるために、まずは「双子」が当時どのように呼ばれていたかを探ってみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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中国最古の方言辞典『方言』での双子について

三国志大学 公孫瓚

 

中国最古の方言辞典『方言』によると、双子の言い方には当時規準の標準語で「双産(双生)」と、その他方言で「釐孳」、「僆子」、「孿生」、「嫁子」があったようです。更に北宋代に作られた韻書(発音字典の一種)の『広韻』には、釐(孷)、孷孳、兹(孖)、緜(𩕰)、輦(僆)、(孖)、㝈(孿)、双生、双生子 とこれまたたくさんの表現があります。

 

※覚えなくて大丈夫です。

 



電子テキストを見れば無料で情報収集ができる!

 

では次に、これらのキーワードを使って史料を検索してみます。ちなみに中国史の文献史料については、台湾の「中央研究院漢籍電子文献」や中国の「中国哲学書電子化計画」など、電子テキストが数多くネット上で無料公開されています。もちろん誤字脱字もあるので取扱いには注意が必要ですが、大変便利な世の中になりました。

 

双子について調べた結果!

 

 

さて結果はというと、数は少ないもののいくつかの記事が出てきました。

確認できた限りで一番古いものは前漢に書かれた思想書『淮南子』で、

「世に瓜二つの孿子 (双子)を見分けられるのは母親だけである」とあります。

これは似て非なる物事について、その道のプロにならばその微妙な違いを見極められるという喩えです。

 

 

後漢末に編纂された考証本『風俗通義』

 

 

次に古いのは、後漢末に編纂された考証本『風俗通義』の記録です。オリジナルの文章はすでに失われていますが、北宋代の『太平御覧』にその内容が保存されています。ある時、済北(現在の山東省あたり)の李登という官吏が病気になり、療養のため実家で長期休暇をとっていたところ、府(役所)から呼び出しを受けました。

 

しかし自分の姿があまり病み衰えていないことを気にした李登は、双子の弟の李寧に「僕らは瓜二つで他人には見分けがつかないし、君の方がよほど病人のようだから、僕の代わりに役所まで行ってきてくれ」と頼みます。李寧は「太守(知事)は厳格な人だし駄目だよ」と断りますが、李登が「大丈夫大丈夫、僕はまだ新人であまり知られていないし、むしろ今僕が出頭したら殺されてしまう」と懇願するので、仕方なく李登のふりをして府に赴き、診察の結果病 気と診断され、無事誰にもバレることなくやり過ごしました。ところがその後、他人の口から事が発覚して、李登は殺されてしまうのでした。要はズル休みを職場に疑われ(案外本当に仮病だったのかも)、双子の弟を身代りに騙し通したものの、結局バレて処罰されてしまったという何ともいえないオチですが、双子入れ替わりエピソードとしてはとても興味深いものです。

 

北魏の正史『後魏書』

 

三つ目の記事は南北朝時代に北斉で編纂された北魏の正史『後魏書』です。崔光韶とその 双子の弟の崔光伯は性格もそっくりで、非常に仲が良かったと記されています。その北斉の正史として唐代に書かれた『北斉書』には、武明婁皇后という皇帝のおきさき様が男女の双子を生んだことが記録されています。異性の双子とはなかなか珍しいですね。

 

 

後晋代に書かれた『旧唐書』

 

更にその唐代について、後晋代に書かれた『旧唐書』には、楊貴妃でも有名な玄宗皇帝の奥さんの一人・王皇后と、その兄・王守一は双子であったと書かれています。これも珍しい異性の双子です。

 

何故、急に正史に双子の記述が現れたの?

氐族

 

しかし魏晋十六国時代までの正史には見られなかった双子の記述が、何故南北朝になって急に連続で出てくるようになったのでしょう。単純に、たまたまそれまでいなかったからかもしれませんが、一つの可能性としては民族性の違いが挙げられるかもしれません。

 

 

五胡十六国以降は異民族が押し寄せた時代

曹操 五胡十六国

 

ご存知の通り、五胡十六国~南北朝は周辺の異民族が華北(中華帝国の北側)に押し寄せ割拠した時代です。北魏を建てたのは鮮卑族の拓跋部ですし、北斉を建てた高さんは「自分は渤海高氏という名門一族の出身だ」と自称したため正史上は漢人扱いですが、実際は 鮮卑系ないし北方系異民族説が研究者の間で濃厚です。また武明婁皇后の実家・婁氏は、元は匹婁氏といい、吐谷渾に連なる一族で、やはり鮮卑系とのこと。更に唐王朝を打ち立てた李さんも、正史上は漢民族とされますが、実態は漢化した鮮卑族とする学説が強い支持を得ています。ちなみに『旧唐書』を編纂した後晋は突厥(トルコ) 系民族の王朝です。

 

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三国志ライター 楽凡の憶測

 

 

あくまで根拠のない憶測ですが、生粋の江戸っ子ならぬ漢っ子の慣習では、双子や三つ子は縁起が悪いと思われたのかもしれません。日本人お馴染みご長寿双子の故・きんさんぎんさんも、生まれ育った地元では双子に偏見があり、子ども時代は日替わりで学校へ通っていたという話もあります。

 

もし漢民族にもかつて同じような考え方があったとすれば、対外的に双子であることをひた隠していたか、片方だけ社会に出て片方は家にいるという生活をしていたのかもしれません。ちょうど李登・李寧兄弟のような感じですね。であればたとえ一方が有名人になっても、双子という記録は残りません。

 

一方、鮮卑族にそれほど偏見がなかったことは、皇后が出産した子どもが双子だったり、皇帝のお妃と臣下が双子だったと記述があるところからうかがえます。もしタブー視され ていたのであれば極力記録には残さないでしょうし、ましてや皇帝のお妃になるなんてありえないですものね。ただし鮮卑系の王朝は他にもあり、その中で双子の記録があるのは一部だけなので、

 

「民族性の違い」説も100%とはいえません。

 

 

当時は双子はどれほどいたの?

キングダムと三国志

 

ところで当時、双子は一体どれほどいたのでしょう。ここで統計を使って考察してみたい と思います。そもそも双子や三つ子といった多胎児は、どれくらいの頻度で生まれるものなのか。それを求める計算式として「ヘリンの法則」というものがあります。

 

これはコーカソイド(白人)の多い欧米に限定した公式なのですが、ざっくり言うと欧米では89件の出産につき1件に多胎児が自然妊娠で生まれるそうです。

 

ではアジアではというと、厚生労働省の統計を見る限り、現代の日本では一年に多胎児、とくに双子が生まれる確率は直近 5 年で平均約 1/100 です。すなわち、およそ 100人に1 人のお母さんが双子を生んでいるということになります。出産の制限政策がある中国大陸は除外するとして、制限適用外の香港では、報道によれば 近年はおよそ出産80件中1件が双子だそうです(ただし自然妊娠の場合は 1/100 とする説 もあります)。

 

更に台湾では、内政部の統計によると例年およそ 100 件中 3 件の割合で生まれています。もちろんこれらの数値には不妊治療による出産も含まれており、不妊治療では多胎児が生まれやすいこと、近年出産する人が減る一方で不妊治療を受ける人が増えていることを考慮すると、純粋な自然妊娠の確率とは言えませんが、1/100というのが割と平均的な比率な のかもしれません。

 

前漢の人口から推測してみる

孔明 コペルニクス

 

ここで前漢に置き換えて考えてみましょう。『漢書』の地理志という当時の地理の記録には、前漢の人口は約6000 万人とあります。一方、『後漢書』の郡国志や『晋書』の地理志によれば、後漢の人口も大体5000万ほどで、特に最後の桓帝の時代に最も多く、およそ 5650万人いたようです。対する現代日本の総人口は、約1億 2700 万人。少子化が深刻な我々よりは漢代の方が出産率は高かったものと思われますが、同時に死産率・死亡率も今よりはるかに高い時代です。

 

出産の割合については漢代の史料からでは分からないので、古代ローマを参考にしてみます。

 

古代ローマを参考にしてみる

テルマエロマエ

 

長谷川岳男・樋脇博敏『古代ローマを知る事典』(東京堂出版)によると、古代ローマでは 年齢別の人口調査記録が行われていたそうです。その中で現存する 1~3 世紀ローマ属州時 代のエジプトの人口調査や、法学者ウルピアヌスの作成した生命表などから、古代ローマ の総人口は、165年の天然痘流行前までは6000万人を超えていた(丁度前漢と同じくらいですね)ことや、生まれた子どものうち5歳までになんとその約半数が亡くなっていたことが分かっています。

 

しかし死亡率が高い一方で、数字上はローマの人口は微妙に増え続けていたので、統計的には15~49歳までの女性1人につき5人以上の子どもを生んでいた計算になるといいます。そこで、たとえばこれを例に前漢について次のように仮定します。

※非常に極端なたとえ話です!

 

1 総人口 6000 万人
2 男女比は 1:1
3 全年齢層は 0~69 歳
4 人口ピラミッドは富士山型(0~4:13.5%、5~9:12.5%、10~14:11.5%、15~19: 10.5%、20~24:9.5%、25~29:8.5%、30~34:7.5%、35~39:6.5%、40~44:5.5%、 45~49:4.5%、50~54:4%、55~59:3%、60~64:2%、65~69:1%)
5 女性 1 人につき平均 6 人出産
6 6人中3人が20歳前に死亡

1と2から、女性の人口は 3000 万人・・・(A)
そのうち 15~24 歳が出産人口と仮定すると、3と4から全体の 20%・・・(B)

出産する女性は A×B=600 万人・・・(C)
5から、生まれる子どもは C×6=3600 万人・・・(D)

このうち現代より多めに見積もって 150 人中に双子が1組いるとすれば、D÷150=12 万 組計 24 万人・・・(E)
6から、成人する双子は E÷2=12 万人

よって、約 6000 万人中、約 12 万の大人の双子がいることになります(片方が死亡してい る場合も含む)。

 

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三國志ライター 楽凡の独り言

baienfu

 

しかし双子のお産は、現代でも帝王切開が選ばれることが少なくないほど難しいものです。未熟児で生まれるケースも多く、医療技術と設備に限界がある時代では単胎児よりも更に死亡率が高かったことでしょう。そうであっても、少なくとも万単位で双子が存在したとすれば、そのうちの誰かしらは著名人となっていても良さそうですよね。

 

そう、ひょっとしたら三国志のあの人も・・・・・・。もし史料を読んでいて、ある人物が急に人が変わったように感じたら、その人は本当に「人」 そのものが入れ替わっているのかもしれません。

 

 

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HN: 楽凡 自己紹介: 歴史専攻は昔の話、今は漢文で妄想するのが得意なただのOLです。 何か一言: タイムマシンが欲しいけど発明されたくない葛藤。

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