さて今回は孫呉を支えたスーパーおじいちゃん、張昭とその死因……というか、死に至るまでのお話をしたいと思います。
三国志の武将たちの中では珍しく、生年が分かっている(没年とその時の年齢が記録されているため)張昭は、ほぼ孫堅と同い年であり、孫策、孫権からすると早くに亡くなった父親と同じような存在……
しかし、彼への対応は真逆に近いことでも有名。これによって彼ら兄弟の評価も分かれてしまうのですが、今回はそこに至るまでも見ていくとしましょうか。
この記事の目次
張昭の経歴と、孫策との出会いに至るまで
さて張昭ですが、若い頃から智謀に長けており、高い名声を得ていました。このため20歳の頃に孝廉に推挙されるも、これには出仕せず。
また三国志演義ではなんかめっちゃいい人になっている陶謙の所に推挙されるも、これを拒絶して投獄されています。この後、陶謙が死んだ後には後の(……)張昭からはちょっと想像がしにくいことに、弔辞を記し、功徳を称えるという行為を見せています。
その後、孫策に仕えることとなりました。
涙無く読んでは人に非ず?孫策と張昭のエピソード
孫策は張昭を招けたことを喜び、張昭の母親に挨拶をするなど、師友として接しました。
それだけでなく、その篤い信任さは斉の桓公が管仲に全てを委ねた故事に倣うが如く、文事武事の一切を委ね、出陣の際は張昭か張紘のどちらか一人を伴い、どちらか一人には留守を任せるということをしており、その信頼の強さは三国志演義でも取り入れられ、張昭は張紘と共に「江東の二張」とされています。
それは孫策の早すぎる臨終の際にも発揮され、最期に枕元で弟の孫権の補佐を頼んでいます。
この際に「弟に能力が足りないなら貴方自身が」と言ったともされ、孫策の篤く、そして深い信頼が読み取れるのではないのでしょうか。早くに父親を亡くした孫策からすれば、張昭は信ずる部下であり、学ぶべき師であり、そして頼れる父親代わりの存在であったのかもしれませんね。
こちらもCHECK
-
孫策・孫権に愛された歴戦の猛者・陳武!陳武伝から読み解くとわかる優秀さ
続きを見る
母親にまで信頼されていた張昭、そして孫権と……
因みに孫策だけでなく、孫策と孫権の母親である呉夫人もまた、臨終の際に張昭を招いて後事を託していることから、張昭がどれほど信頼されていたかが良く分かります。
張昭は孫策の死後、自ら朝廷に孫権が後継者であると上表。また兄の死を悲しみ政治を取らなかった孫権を叱咤激励するため、馬に乗せて兵士を率いさせ、孫権が後継者であると人々に認知させました。
孫権が出陣した時は孫策の際と同じように留守を託され、更に孫策死後の混乱する勢力を良く取りまとめ、自ら軍を率いて討伐に赴くこともあったそうです。そんな張昭を孫権も信頼して、張公と呼ばれていたそうです……が。
こちらもCHECK
-
呉の家臣団の組織関係が孫策時代と孫権時代が全く違い面白い
続きを見る
赤壁の戦い前後から起こり始める、孫権との確執
ここから記録に不穏なものが見え始めします。始まりは甘寧の投降から、甘寧は孫権に高祖を討つことを進め、張昭はこれに反対。しかし孫権自身は甘寧に賛同しました。
また赤壁の戦いでは降伏を進言する張昭らと、開戦を進言する周瑜と魯粛、結果、孫権は戦うことを選びました。
これは三国志演義でも取り入れられ、三国志演義では張昭は諸葛亮に舌戦を挑んで論破される人物の一人として描かれます。余談ですが、関羽の首を曹操に贈ることを進言するのも張昭で、余り好い役目を与えられているとは言い難いですね。
この赤壁の戦いで降伏を進言したことは、後に孫権が帝位に着いた際に「私が今こうしていられるのは周瑜のおかげだ」と諸将に告げると共に
「もしもあの時、張昭の言うことを聞いていたら、私は今頃乞食になっていただろうな」とまで言っています。ひどい!あんまりだ!そこは周瑜にお礼を言って称えて終わりなさいよ!!と、コホン、話がそれましたが、この事をから孫権と張昭の間に確執があったことが感じられるようになっていきます。
こちらもCHECK
-
張紘と張昭。史実では「二張」と呼ばれなかった2人の関係性を考察
続きを見る
張昭と孫権、ちょっと口うるさいおじいちゃん……
因みに孫権と張昭のエピソード、かなり豊富です。
ある日、虎狩りをしていて虎に反撃され、馬の鞍に飛びつかれた孫権。これに張昭は「君主で大事なのは優秀な進化を使いこなすことで、野原で野獣と競い合ってどうしますか」と叱りました。これに孫権は激しく反省をしてそれ以降は狩りを止め……ることはなく、木製の装甲車を作って狩りを続けたそうです。
またある日は酒乱で有名な呉王様、酔い潰れた配下に水をかけてでも起こして更に飲ませると言う、アルハラこの上ない所業を楽しんでいると、張昭はその場を立ち去りました。
これに呉王様は「皆で楽しんでるのに!」というと張昭「紂王が酒池肉林やった時にも同じことを思ってましたよ!」と𠮟りつけ、孫権はその場は宴会を取りやめたとあります……
その後を見る限り、やはり酒から逃れられない人はいるんだな……と思わせてくれる、呉王様と張昭のエピソードの一つですね。余談ですが酒池ではないものの、張昭が家の前に掘った池が張昭の爵位から取って「婁湖」として伝わるそうですね。
こちらもCHECK
-
権力者の重圧?酒癖の悪かった呉の孫権
続きを見る
張昭の死因……ストレスとか言われたら言い返せないが……
そんな張昭は晩年はその口うるさ……コホン、意見からか目通りを禁じられるも、蜀の使者に言い返せるものがいなかったことで孫権は「張昭がいてくれたら……」と反省。その後、張昭も孫権も互いに謝罪して反省しまうのですが、それから暫くしてやっぱり張昭の意見を聞き入れなかった孫権、怒った張昭。
張昭引きこもる!
孫権、これに怒って土で張昭の屋敷の門を塞ぐ!
なぜか張昭、内側から土で塞ぐ!?
孫権、謝罪しようとするけど張昭断る!(頑固)
孫権、火をつける!(どうして)
それでも出てこない張昭!(ええ)
孫権、火を消す!(えー……)
張昭の息子たち、父親を抱えて外に連れ出す(大変だなぁ)
孫権、謝罪!張昭も怒りを鎮める!(……)
というとんでもエピソードが存在しています。
この後、張昭は81歳で亡くなりますが、年齢的に考えると寧ろここまで良く元気に生きていたな……と言う感じで、流石にこれに政治的な死因云々黒い話云々は無かったと信じたいです。
ただ張昭と孫権に関して陳寿先生は「張昭を冷遇している辺り、孫権は孫策に及ばなかった」と辛口評価ですね。
こちらもCHECK
-
【三国志アンケート】4242名に聞きました!孫権を四文字で表すなら?
続きを見る
張昭の死から分かる……孫権の性格
さて張昭と孫権、非常に相性が悪かったんだろうな……と思います。これは筆者が何度も煎じてしまうのですが、孫権、真っ向から正論で怒られるとやたら反抗すると言うか、素直に受け止めないのですよね。
それは虞翻や諸葛恪への対応にも表れているようにも感じます。しかし同時に、ここまで孫権とやらかしてくれたのもまた、張昭一人……こんなのが二人三人いたら魔窟な気もしますが……ともあれ、最期まで孫権に付き合って怒ってくれているのもまた、張昭一人であるとも感じます。
そういう意味では、孫権もまた、張昭に甘えている所があったのではないかと思うのです。これだけ苛烈な孫権とやりあって、81歳まできっちり生きた。それもまた、孫権が心のどこかで、煩く思いながらも張昭を当てにしていた……切り捨てられなかった証ではなかったか、とも考えられないでしょうか。
そういう意味では張昭を失ってからこそ、孫権の崩壊が始まってしまったのでは……そんな風にも、感じてしまうのですよね。
こちらもCHECK
-
キレる息子孫権と頑固オヤジ張昭のケンカが激しすぎる
続きを見る
三国志ライター センのひとりごと
まあ孫権と最高の相性を叩き出すのは諸葛瑾ただ一人だと思うのが筆者なのですが!(余韻ぶち壊し)ただこれだけ怒ってくれる、そして忠告してくれる人間がいるかどうかは、皇帝と言う身分についた人物からすると貴重でもあると思います。
何だかんだ孫権も心のどこかでそれを分かっていたのでは?いやそれはそれで皇帝となった時のあのセリフ何よ?
うーん、心が二つある……悩ましい所ですが、皆さんは張昭に対してどんな感情をお持ちでしょうか。宜しければ教えてくださいね!どぼーん。
参考:呉書張昭伝 呉書
こちらもCHECK
-
孫権が張昭を呉の丞相に任命しなかったのはどうして?
続きを見る