呂範とはどんな人?お金に厳しく誠実だった孫権の左右の臣の生涯

2022年6月22日


 

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呂範

 

さて呉の人々にもっと脚光を当てようシリーズ(今決めました)、今回は呂範(りょはん)です。呂範は呉に、孫策の代から仕え始め、そして孫権(そんけん)の代になっても呉を支えた名将。

 

その逸話の数々から誠実な人柄が読み取れ、孫権にもそれが良く分かっていたのか良く用いられました。その逸話も交えつつ、呂範の人生を見ていきたいと思います。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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貧乏だったけど将来性がある呂範

呉の小覇王・孫策

 

呂範は字は子衛(しえい)と言います。彼は孫策(そんさく)に仕えることになりますが、そこに至るまでは決して平たんな道ではなかったようです。というのも元々、彼は貧乏な役人の一人であり、かなり生活は困窮していたようです。しかし若い頃から分かる人には分かる輝きを秘めた人相の持ち主だったのでしょう。

 

豪族の劉氏(りゅうし)は彼を見るなり「ただものではない」と判断、娘を嫁がせようとします。この時に奥さんが「あんな貧乏人にどうして娘を!」と大反対しましたが、劉氏は何とか妻を説得、娘を娶らせました。

 

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呉の武将

 

 

 



人違いで陶謙に拷問される呂範

袁術、陶謙

 

後に戦火から逃れて、寿春(じゅしゅん)に訪れます。ここで出会ったのが孫策。孫策に仕えることを決め、後に信頼される配下の一人となりました。

 

この後、孫策は呂範を信用して徐州(じょしゅう)の母親を迎えに行かせるのですが、よりによってこの際に陶謙(とうけん)から袁術(えんじゅつ)の配下と間違われ、投獄されて拷問まで受ける羽目になりました。

 

 

その後、呂範の部下たちが彼を救い出し、無事に孫策の元に帰ることができました。孫策は家族同然に呂範を信頼し、母親のいる屋敷にも呂範を招いたと言います。

 

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孫河と共に孫策の両腕へ成長

手柄を立てる呂範

 

孫策と言えば断金の交わりといわれる周瑜(しゅうゆ)との友情が覚えめでたいことと思いますが、孫策の左右と言われると孫河(そんか)、そして呂範と言われるような存在だったのです。孫策の下で様々な戦いに赴いた呂範は、数々の手柄を立て、孫策が天下に羽ばたく手助けを行っていきます。

 

ほっぺたに矢を受ける孫策

 

しかし、孫策は羽ばたく前にその命を失いました。呂範がどれだけ無念であったかは分かりませんが、後、呂範は孫策と同じく、孫権に忠義を捧げ、再びいくつもの戦いで変わらぬ活躍をしていくこととなります。

 

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劉備を逃がすな!と孫権に助言

孫策が亡くなり呉を継ぐ若き孫権

 

さて孫権の下での呂範の働きと言えば、劉備(りゅうび)の一件が挙げられます。さる年、劉備が孫権の元を訪れました。孫権の妹、孫尚香(そんしょうこう)との結婚のためですね。

 

じゃじゃ馬な孫尚香

 

この時に劉備を見た呂範は、決して返さないように、そのまま留めさせるように、と孫権に進言しました。しかし孫権はこの時にはそれほど劉備を警戒していなかったのか、これを聞き入れませんでした。

 

後に関羽(かんう)との決戦の際に孫権はこれを思い起こし、呂範に「あの時に君の言うことを良く聞いていれば、今こんな苦労をせずに済んだのになぁ」と言って、呂範に建業を任せたと言います。

 

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呂範を字で呼んで死を悲しむ孫権

後悔する孫権

 

その後、228年、呂範は様々な功績から大司馬(だいしば)に昇進しました。しかしその印綬を受け取る前に病没、残念ながら年齢は分かりません。孫権は呂範の死を深く哀しみ、その墓を訪れました。

 

「子衛」

 

孫権はその墓を前に、そう呼びかけると、それ以上言葉が出なくなり、ただ涙を流して悲しんだと言います。子衛はもちろん呂範の。字で呼ぶほどに孫権は呂範に敬意をはらい、そして親しんでいたのでしょう。それが良く分かる、そして哀しいエピソードです。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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