【真田丸特集】バツイチ女性が好きだった曹操と家康!

2016年3月27日


 

 

戦国時代を統一して徳川幕府を開いた、徳川家康。

NHK大河の真田丸では、内野聖陽が演じ英雄らしからぬ

情けない一面を持つ人間臭い人物として、描かれています。

 

曹操は女性の敵なの?もじのみ

 

さて、この家康、バツイチ・未亡人好きとして有名でしたが、

三国志にも、家康に負けないバツイチ好き曹操が存在しておりました。

二人はどうして、バツイチ・未亡人好きなのかを調べてみましょう。

 

真田丸に関する記事一覧:真田丸全記事

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



確信的に人妻を選んでいる家康

 

 

さて、徳川家康ですが、大変な子沢山でもありました。

何と、男が11名に女が5名もいたと言われ、それ以外にも、

御落胤(ごらくいん:隠し子)もいたそうです。

生涯、戦争ばかりしているのに、どうしてそんな暇があったのか?

と要らない詮索はさておいて、この家康は、バツイチ好みでした。

 

朝日姫、西郷の局、茶阿の局、英勝院、雲光院、お亀の方

 

 

そんな、家康の代表的な未亡人・バツイチは、朝日姫、西郷の局、

茶阿の局、雲光院、お亀の方と6名にもなります。

違うのは、家康の正室として迎えられた築山殿ですが、

こちらは、家康がまだ、今川義元の人質だった頃に決められた縁組で、

家康の意志は入っていません。

 

家康は、母の愛に飢えていた。

 

 

徳川家康の母は、於大(おだい)の方と言いますが、

家康が僅か2歳の頃に彼女の兄が、織田方に寝返るという事件が起きました。

家康の父の松平広忠は、今川氏の庇護を受けて、ようやく生きている

弱小豪族だったので、この事に神経を尖らせ、於大の方と離婚して、

織田に内通しているのでは?という今川氏の疑いを回避します。

 

於大の方は実家に帰されてしまい、家康は、2歳で母と生き別れます。

この事で、家康は母の愛を充分に受ける事が出来なかったので、

その満たされない思いを、子供を産んだ事のある未亡人や、

バツイチ女性へ求めていたという事なのです。

 

しかし、異説も存在する・・

 

 

家康が、実母の愛情に飢えていたというのは、

一見、もっともらしいですが実際には疑わしい部分もあります。

というのも、戦国時代には、大名の妻は早期の妊娠を促す為に、

子供が産まれると引き離し、実際の教育は乳母が行うのが普通だったからです。

 

戦国の世ですから、子供は一人でも多い方が良かったのですね。

 

家康の場合も、弱小とはいえ大名ですから、

生母は於大の方でも、養育は乳母が当たったと考えられます。

家康の乳母は、内藤勝重の妻の松という女性だと言われています。

 

彼女は、天然痘(てんねんとう)に罹患した家康の為に、

自分の生命を引きかえにして神仏に病気の回復を祈り、

家康が全快すると神に感謝して自害したそうです。

こんなにも、激しく深い乳母の愛に包まれていたのですから、

家康が母の愛に飢えていたとは考えにくいでしょう。

 

家康の未亡人・バツイチ好きは、子供を授かりやすいから

三国志 女性

 

実際の所、家康がバツイチや未亡人を選んだのは、一度妊娠出産を経験した

女性は、お産が軽く済む事が多く、妊娠しやすいという理由だったようです。

なにしろ、当時は乱世です、血を分けた子供は、成長すれば領地の城を

任せたり外交で他家の人質に出したり、縁組で同盟関係を強化したりと

まさに多ければ多い程よかったのです。

 

それを裏付けるように、家康が年老い、天下が定まると、

今度は反対に自分よりも50歳も下の10代女性に手をつけるようになります。

その頃には、徳川幕府も安泰になり、自分の子供をそれ以上増やす

必要がなくなり、純粋に自分の好みで女性を選ぶようになった・・

という事なのかも知れません。

【次のページに続きます】

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-三国志の雑学
-, , , , , , , ,