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三国志一のバツイチ・未亡人好き、曹操孟徳
さて、家康に、勝るとも劣らない、バツイチ・未亡人好きとして、
我らが英雄、曹操孟徳(そうそう・もうとく)がいます。
彼には、分かっているだけで13名の妻がいて、25名の男子、
7名の娘がいた事が分かっています。
曹操の人生も、ずっと戦争の連続なのですが、どうして、
その多忙の中で、こんなにウヒョな事が出来たか不思議です。
鄒氏、杜夫人、尹夫人、甄氏(未遂)
さて、曹操と言えば、未亡人、或いはバツイチの女性を好んで、
側室に迎えているという事で有名です。
一番、有名なのは、未亡人の鄒氏(すうし)で、
曹操は40を過ぎてから、この美女に夢中になり、
その為に張繍(ちょうしゅう)に恨まれて背かれ、息子の曹昂(そうこう)と
豪傑の典韋(てんい)を失っています。
また、杜(と)夫人に至っては、呂布(りょふ)を滅ぼした頃に
手に入れますが当初は名も知らず、関心もありませんでした。
しかし、何故か、朴念仁の関羽(かんう)が、このバツイチの杜夫人に
一目惚れしてしまい、曹操にしつこく「くれ、くれ」攻撃をしたので
「そんなに美女か?」冷やかし半分で会ってみたら、
曹操もゾッコン惚れてしまいます。
そして、関羽との約束を反故にして、自分の妻にするのです。
あれだけ配下に欲しがっていた、関羽との約束も反故にするのですから、
こと、女性に関して曹操は他人に一歩も譲る気はないようです。
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未亡人の尹氏、そして曹丕と取りあった甄氏
尹氏(いんし)は、元は大将軍何進(かしん)の息子に嫁いでいましたが、
189年に、何進の一門が宦官に殺された際に夫を失います。
行く所が無くなった尹氏は、そのまま宮廷に残り、
一人息子の何晏(かあん)を養育していましたが、献帝が許に移った頃に、
司空になった曹操に会い、その妻になりました。
曹操は連れ子である何晏も、とても可愛がったようです。
この辺りが、連れ子には情が薄くなる凡夫と曹操が違う所です。
ちょっと褒めた直後で、曹操はまたやらかします。
西暦204年に、袁家の拠点、冀州(きしゅう)を攻めた時の事、
袁煕(えんき)の妻で、美女の誉れ高い甄氏(しんし)を得ようと、
息子の曹丕(そうひ)と競争してしまうのです。
勝負には、曹操がタッチの差で敗れ、甄氏は曹丕の正室に
なるのですが、曹操は未練たらたらだったとか・・
まあ、息子と美女を取りあう位ですから、曹操は美女となると
ほとんど見境いがない野獣だと言えるでしょう。
確信的な家康と違い、曹操は、未亡人やバツイチどうこうではなく、
とにかく好きになったら相手の立場は、余り関係なくなるんでしょうね。
いえーい、肉食系男子だぜ、曹操孟徳。
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真田丸ライターkawausoの独り言
余談ですが、家康とは対照的に豊臣秀吉は
勝気で高飛車で、性格がキツイ、姫様好みだったようです。
元々が農民の出の秀吉は、姫様の持つ高貴さに、
身分が低い頃から憧れていたのでしょう。
淀君を見ると分かりますが、ああいう気の強い
じゃじゃ馬タイプが秀吉の好みだったのですね。
また、家康の孫の徳川家光は、生まれながらの将軍なので、
姫様などは見あきていて、興味がありませんでした。
逆に、汗に塗れて働いているような、健康的で筋肉質な
庶民の女性が、ストライクゾーンだったらしく、
家光の側室で、徳川綱吉の生母である桂昌院は、
西陣の織物屋の娘だとも、八百屋の娘だとも言われています。
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