この記事の目次
闕の後ろに広がる、曹操邸の間取り
この闕をくぐった先が、お屋敷の内部という事になります。イラストは、紀元前10~9世紀と、三国志の時代よりはかなり前ですが、この時代に、中国式建築の間取りはほぼ完成していました。
ですので、後漢の時代の曹操さんのお屋敷の間取りも、これと大きく違う点は無かったと思います。
屋敷の入り口左右には、塾(じゅく)と呼ばれる部屋があり、そこから門をくぐると、前庭が広がっています。その前庭の奥には、堂と呼ばれる吹き抜けの大きな建物があり、重要な儀式や会議は、ここで行われたそうです。
左右対称、アーケード付き回廊が巡るお屋敷
堂を抜けると、そこには、唐(とう)と呼ばれる屋根付きの道があり、左右に東庭、西庭という庭園が広がっています。その奥には、室(しつ)と呼ばれる個室が3部屋並び、その左右には、房(ぼう)や、廂(しょう)、夾(そう)、と呼ばれる個室が、左右で7部屋ずつ計14部屋ありました。
イラストで黄色で表わしているのは、アーケードを巡らした回廊です。角度を変えた「コ」の形をしていて、雨が降っても、回廊を通れば、濡れずに移動する事が可能でした。赤い点は、柱が建っていた事を示すマークで、個室の周囲を、柱が巡っている事が分かりますね。
曹操さんのお屋敷ならば、このイラストよりもずっと部屋も規模も大きかったのだと思います。13名も妻がいた曹操ですが、こういう構造の屋敷なら、それぞれの奥さん達は、普段はそれぞれ独立した生活を送る事が可能だったでしょうね。
三国志ライターkawausoの独り言
この曹操さんのお屋敷を見て、「なんだか日本のお寺の造りに似ている・・」と感じた方、あなたは鋭いです。実は、日本の仏教は、中国からの伝来なので、日本のお寺は、中国式の建築をそのまま取り入れて造られたのです。
また、日本の武士は、元々は、武装した農民で、古来、貴族の庇護するお寺や、貴族の屋敷の闕を守るガードマンの役割でした。そんな彼等が、守った場所こそが闕だったのです。
「恋闕(れんけつ)」という古い言葉がありますが、意味は、武士が天皇に忠義を尽くして恋慕うという恋愛感情のような気持ちを言います。これは、元々は貴族の屋敷や寺の闕を守っていた武士団が大きくなり、源氏と平氏のような武士団に成長して、晴れて、天皇の御所の闕を守るようになった事に由来しています。
元々は、貴族に蔑まれていた武士達が、「俺達もいよいよ天皇様の闕を守れるようになった誇らしいなあ」と考えて、命に換えても天皇を守ろうとした気持ちを表わしているんですね。
中国では箒を持っていた闕の番人が日本では刀や槍を持つ武士になる文化の違いって面白いですね。本日も三国志の話題をご馳走様でした。
関連記事:曹操の塩対応に張松ブチ切れ!曹操が冷たく扱ったのは傲慢ではなく驚くべき理由が隠されていた!
関連記事:【保存版】三国志に登場する兄弟をドーンと紹介!!【三國志兄弟物語】