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趙奢(ちょうしゃ)とはどんな人?趙の三大天最後の一人で政治・軍事両方に秀でた名将【後半】

2016年4月18日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三大天の死

 

馬服君・趙奢は病にかかり亡くなります。

彼は亡くなる前に妻を呼び「括を絶対に将軍にするな。

あやつが将軍になりそうになったら絶対に止めよ。

あやつが趙の将軍となれば趙が滅亡する事になる」と遺言を残します。

こうして趙の三大天として歴史に名を残した趙括は亡くなります。

 

 

 

趙奢の死後

 

趙奢の死後、秦の宰相・范雎(はんしょ)は名将王齕(おうこつ)を将軍に任命し、

趙へ侵攻させます。

趙は三大天最後の一人である廉頗を将軍に任命し、秦軍を迎撃させます。

こうしてキングダムでも紹介された長平の戦いが勃発。

しかし廉頗を将軍に任命した趙の孝成(こうせいおう)は突如廉頗を更迭し、

趙奢の息子趙括を将軍に任命し、長平に赴かせます。

 

 

 

趙奢の妻の諫言

 

この時趙奢の妻は孝成王に諫言を行います

「わが夫趙奢は息子に兵を任せてはいけないと遺言を残しています。

どうかわが夫の遺言を尊重していただけませんでしょうか。」と述べます。

しかし孝成王は彼女の諫言を受け入れませんでした。

そのため彼女は「息子を将軍になって敗北した場合、

わが一族に罪が及ばないようにしていただきたい。」と懇願。

孝成王は彼女の懇願を受け入れ、趙括は総大将として長平へ向かいます。

 

趙奢の予言が当たってしまう

 

趙括は趙の総大将として長平に着任すると、廉頗が作った防壁から打って出て

全軍を進ませます。

しかし秦は総大将を王齕から名将である白起に後退しておりました。

白起は趙の全軍が出撃した事を知り、別働隊に趙括率いる趙軍の本陣を陥落させます。

その後白起率いる本隊と別働隊で趙軍を挟撃。

趙軍は本陣陥落の報告を聞いて、全軍が混乱状態になりますが、

趙括は何とか長平の砦に戻ります。

白起は趙軍を打ち破った後、長平の砦を十重二十重に包囲。

包囲する事四十日後、砦から打って出て来た趙括の軍勢を全滅。

こうして秦は趙軍に大勝利を収める事になります。

また趙奢の予言は見事に的中してしまい、趙はこの戦い以降

一気に国力を低下させる事になります。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

趙奢は閼与の戦いで大勝利を収め、

馬服君として趙の三大天の一人に数えられる事になります。

彼の子孫は馬(ば)の姓を名乗り、生きていく事になります。

後年後漢王朝を建国したチート皇帝・劉秀の配下である馬援(ばえん)は

彼の子孫にあたります。

また三国志に登場する西涼の錦と言われた馬超も彼の末裔です。

こうして彼の地は連綿と受け継がれ、三国志にも影響を与えていたのです。

「今回の春秋戦国時代のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまた初めての三国志でお会いしましょう。

それじゃまたにゃ~。」

 

 

—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代  

 

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