【九州三国志】『三國志』は中国だけじゃない!日本の三国志事情 Part.1

一気に勢力を伸ばす大友家




鹿児島

 

宗麟(そうりん)は後継者争いに勝利し、大友家の当主となると勢力拡大を図ります。

まず、中国地方の覇者で九州に近い周防(現在の山口県)

の大内家当主が、陶隆房(すえはるかた)の謀反により亡くなります。

宗麟は陶隆房から大内家の新当主を立ててほしいと要請を受けると、

弟を送り、大内家の新当主に据えます。

弟を大内家新当主に据えた事で、周防に近い九州の豊前・筑後の国人や豪族達が、

大友家に臣従してきたことで二国を苦労せず版図に加えます。

こうして一気に勢力拡大に成功します。

その後形だけの室町幕府に莫大なお金を献金し、九州探題に任命されます。

九州探題とは九州全域の統治権を持った地位です。

こうして名実とも九州の覇者になります。




九州最大の勢力になっていた時の龍造寺隆信は何をしていたの?

photo credit: Lantana in the dark via photopin (license)

 

大友家が九州最大の勢力となっていた時、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

はどうしていたのでしょうか。

隆信は大友家が勢力を伸ばしていた時、領地であった肥前を家臣達の謀反により

追い出され、筑後に逃亡しておりました。

筑後には龍造寺家再興に協力してくれた恩人蒲池鑑盛(かまちあきもり)が

柳川城におりました。

隆信は鑑盛を頼り、龍造寺家当主に返り咲くため力を蓄えておりました。




大友家が勢力拡大した時の島津義久は何をしていたの?

photo credit: Colors of Winter via photopin (license)

 

さて三国志の蜀に当たる島津義久(しまづよしひさ)は、

大友家が九州の覇者の地位を確立した時何をしていたのでしょうか。

義久は初陣を果たした後、父貴久(たかひさ)と共に、

薩摩(さつま)統一に向けて邁進しておりました。

義久が初陣を果たした時、薩摩は豪族達が割拠し、国内は分裂。

そのため貴久は嫡男義久と共に各地の豪族達の討伐に明け暮れておりました。

薩摩が統一されるのは義久が初陣を果たしてから、16年後になります。

 

大友家に立ちはだかる巨大な壁

photo credit: Hiding behind the trees via photopin (license)

 

宗麟は九州探題に任命され、名実ともに九州の覇者に近づきます。

しかし宗麟の前に大きな壁が立ちふさがります。

その壁は毛利家です。

毛利家は陶隆房(すえたかふさ)を厳島の戦いで討ち取った後、

旧大内領を吸収。

こうして中国の覇者たる地位を着実に固めていく毛利家当主

毛利元就(もうりもとなり)は、九州地方に侵攻を開始。

毛利家は小早川隆景(こばやかわたかかげ)に軍勢を与え、

周防から船を出して長門海峡を越え、九州に上陸。

その後豊前の門司城(もんじじょう)を陥落させ、

この地を拠点に毛利軍は九州侵攻を始めます。

大友家は毛利家を九州地方から追い出すため、

立花道雪(たちばなどうせつ)をはじめとする諸将に軍勢を与え出陣させます。

 

北九州の覇権をかけた門司城の戦い

門司城の戦い wiki

(写真引用元:wikipedia 門司城の戦い)

 

大友家の総大将である道雪は、毛利軍と柳ヶ浦(やなぎがうら)で開戦。

道雪は柳ヶ浦で毛利軍を完膚なきまで叩き、門司城の奪還に成功します。

毛利軍は一時撤退するも、すぐに大軍を引き連れて再来し、

大友軍が去った門司城を占領。

こうして大友家と毛利家による門司城攻防戦が始まります。

この戦いは7年もの間繰り広げられ、最大の戦いは第4次門司城攻防戦です。

第4次門司城攻防戦では宗麟自ら大軍を率いて門司城を包囲。

毛利家は元就の嫡男・毛利隆元(もうりたかもと)を総大将に小早川隆景を

副将に据え、大軍をもって援軍に向かわせます。

宗麟は門司城を包囲すると火の出るような凄まじい猛攻をかけます。

 

小早川隆景の軍略が冴えわたる

小早川隆景 wiki

(画像引用元:wikipedia 小早川隆景)

 

隆景は門司城が大友家の猛攻にさらされている事を知ると、

門司城に援軍を差し向けず、水軍を使って大友家の領地である

筑前・豊前の沿岸を攻撃させ、大友軍の背後に上陸させます。

大友軍の背後に周り込んだ毛利軍は、大友軍の本陣めがけて猛攻を開始。

宗麟率いる本陣は毛利軍の猛攻を受け撤退。

宗麟の本陣が撤退したことを知った門司城包囲軍も包囲を解いて撤退します。

毛利軍は大友軍撤退の知らせを受けると猛追撃し、大勝利を得ます。

 

大友家の逆襲

photo credit: Sunset . Rìluò . Puesta Del Sol . सूर्यास्त . Pôr Do Sol via photopin (license)

 

大友家は小早川隆景の知略に敗れた後、態勢を立て直し、

再び門司城へ向けて進軍を開始。

大友家は門司城に着くと再び攻撃を開始すると共に、

門司城付近に陣を敷いている毛利家の軍勢に対しても猛攻をかけます。

立花道雪は毛利軍へ800人以上の弓兵による斉射を行い、

他の諸将も道雪に続いて猛攻をかけます。

門司城の付近に陣取っている毛利軍に大損害を与えることに成功しますが、

城を落とすことはできませんでした。

 

毛利家との和解

photo credit: The jewel in the crown via photopin (license)

 

元就は中国地方の大大名である尼子家との戦に決着をつけ、

中国地方の覇者たる地位を確立させるため、

室町幕府の将軍である足利義輝(あしかがよしてる)に斡旋して、

大友家との和睦を図ります。

大友家は毛利家との戦いで疲弊していたことともあり、

かなり不利な条件で毛利家との和睦に応じます。

こうして長きにわたる毛利家との戦いは和睦が成立した事で、終焉を迎えます。

しかし大友家が失った物は大きく、

北九州の拠点であった門司城は大友家の元を離れ、毛利家の所有となります。

 

次回記事:【九州三国志】『三國志』は中国だけじゃない!日本の三国志事情 Part.2

 




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この記事を書いた人:黒田廉(くろだれん)

 

黒田廉

■自己紹介:

横山三国志を読んだことがきっかけで三国志が好きになりました。
その後の日本史・中国史を学びました。
またいろいろな歴史小説を読んでおります。現在はまっている歴史小説は宮城谷昌光氏の劉邦です。

■歴史人物:

張遼孟嘗君、張作霖など

■何か一言:

今年も頑張ってはじさん盛り上げていくにゃー!!

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