つい最近まで、中国においての馬車は、富と権力の象徴でした。三国志の時代以前には、戦車として、戦場の花形であった馬車は、騎兵の登場で、戦場の主役の座を追われますが、馬車の需要は、ステイタスに変化して、その後の時代も継続して存在します。
では、三国志の時代には、どんな馬車があったのでしょうか?
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意外、庶民でも乗れた馬車
馬車というと、特権階級の乗り物というイメージですが、実は、そうでもなく、中国では古くから荷物運搬にも使われた経緯から貨物輸送車の側面が存在しました。
つまり、荷物には人も含まれたわけで、馬車を保有していなくても、一定のお金を払う事で、馬車に乗る事は出来たわけです。
ただし、荷物運搬の馬車は屋根も周囲の覆いもない吹きさらしで、馬などを装飾で飾る事も厳禁でした。そうする事で、同じ馬車に差をつけて、貴族や官僚とそれ以下の庶民の区別をつけていたんですね。
女性の乗る馬車は、幌か覆いがつけられる 容車(ようしゃ)
ただし、女性が乗る馬車には、姿が見えないように、馬車に幌をかぶせたり、傘に布を垂らしたりしていました。これらの馬車は、女性専用とされ、容車と言われていたようです。
役人用の馬車、軺車(しょうしゃ)
これが、庶民とは一線を画する、役人になると、軺車という、傘のような屋根がついた馬車に乗る事を許されます。こちらは、庶民用の馬車よりは、やや見栄えが良く、少々雨が降っても濡れないなどのメリットがあります。
しかし、まだ、周囲の覆いはなく、吹きっさらしになっていて、また、自分で運転しないといけないので、冬などは、これで出勤するとなると、かなり寒かったでしょうね。
大金持ちや貴族の馬車 軒車(けんしゃ)
貴族や大金持ちになると、屋根ばかりではなく、周囲に覆いもついた、贅沢な造りの馬車に乗る事が可能になります。これなら、外から人にジロジロ見られる事もないし、風も雨も防げます。内側で炭を起こせば、真冬でも寒くなく過ごせるでしょう。
もちろん、自分で馬車を運転する事はなく、御者に操縦は任せます。複数の人が乗りますから、馬も複数になり大型化しています。
董卓や、曹操のレベルなら、こういう古代のリムジンのような、贅沢な馬車に乗り、周囲を我が物顔で乗り回した事でしょうね。
後漢時代のスピード狂御用達、ロードスター
後漢時代の人は皆、のんびりしていたと思うのは現代人の思いあがりです。1800年の昔から、スピード狂の人間はいたようで、壁画には、後部の幌に彼女か、妻を乗せて、男の御者が、勢いよく馬を走らせる様子が描かれています。
馬車も小さめで、かなり軽量化されているようなので、これならば、スピードがかなり出た事でしょう。
史書には、かなりスピードが出る、追鋒車(ついほうしゃ)という馬車が記録されていて、性格がせっかちだった、魏帝、曹髦(そうぼう)が、側近だけど、宮中には仕えていない司馬望を呼びだす時に、この追鋒車と虎賁の兵卒5名を与えて、目一杯、急いで来させたという記録があります。
もしかすると、袁術や、曹操のような、金持ちのドラ息子達は、この追鋒車のような快速馬車に彼女同伴で乗り込み、洛陽の郊外までレースをするという、湾岸ミッドナイトな青年時代を過ごしていたかも知れませんね。
馬以外にも、牛車、駱駝車、驢馬車と多彩
車を引いたのは、もちろん、馬だけではありません。日本の平安時代の貴族の乗り物のイメージの牛車、さらに、
西域に住む漢民族は、駱駝車、低燃費を望む人には大人気の、驢馬車など、多種多様な種類があった事が分かっています。
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三国志ライターkawausoの独り言
このように、後漢時代、馬車は、その人物の社会的なステータスを一目で表すものでした。当時の貴族や高級官僚は、馬車に乗る自分の姿を絵師に描かせ、それを壁画にして、屋敷を飾ったりしたようです。
今風にいえば、高級車を乗り回す自分をDVDに録画して、後で鑑賞するようなものでしょうね。本日も三国志の話題をご馳走様でした。
画像出典元/中國古代車馬圖集 @ 中國藝術典藏 :: 隨意窩 Xuite日誌