于禁(うきん)、字は文則は山を駆けるのが好きだ。
何日も獲物を追跡し、弓矢で仕留める。
熹平元年(172年)に生まれているので、今年の初平三年(192年)で21歳となる。
弓術は幼いころから父親に習い、10歳の頃には武芸の腕と政治の手腕で有名だった鮑信(ほうしん)に教えを乞い、その技を磨いた。
鮑信からは10年のひとりの逸材と呼ばれたが、なにせ于禁自身に戦場で弓矢を放つつもりはなかった。
山で鹿や猪を狩って生きていくのが性に合っていると信じてはばからない。
「文則!当主(ちちうえ)が及びだ!早々に戻ってこい!!」
山に于禁を呼ぶ声が響き渡る。女のように高い声だ。声の主が誰なのかすぐに検討がついた。
于禁は山奥の木の上で昼寝の最中であったから、ため息交じりで枝の上に立ち上がり、平地を眺めた。
赤と黒の混じった甲冑姿の兵の姿が見える。四方八方に向って同じ言葉を叫んでいた。
「フン、曼成の奴め雀のようにやかましい」
一方の枝にかけられていた弓を手に取った。矢をつがえる。平地の兵までの距離は百歩というところだった。
「文則返事をせよ!!」
兵は体全身を使ってそう叫んでいた。
風が吹く。枝がざわめく。それも計算にいれて射は放たねばならない。
于禁は呼吸を止めた。あらゆるものが一点に集中する瞬間を待つ。
雀が数羽飛んでいる。
平地の兵の頭上を飛んだ。
「フゥオオ」
于禁は息を吐きながら、ゆっくりと指先を離し、矢を放った。
矢は風にあおられながらも放物線を描き、平地の兵めがけて飛んでいく。
「文則どこじゃ!!」
兵がそう叫んだ瞬間、目の前を飛んでいた雀の首に矢が突き刺さって、落下した。
兵が剣を抜く。
左の頭上でもう一羽の雀が射られて落ちた。
恐るべき腕前である。
「そこか文則、戦支度じゃ」
兵は驚きも恐れることもなく、矢が飛んできた方角の山を向いてそう云った。
「戦?どこぞの軍閥でもこの乗氏県に攻めてきたのか!?」
「詳しい話は軍議の場で話がある。今度は遠征だ。準備には時間がかかるだろう」
そう云うと兵は兜を脱いだ。澄んだ瞳をしている。色は白く、眉は太い。唇も厚く艶めいていて、一見では男か女か見分けがつかない。
「遠征だと?義に厚い李家の当主らしからぬ動きだな。曼成よ、他国を占領するなど、俺は手を貸す気はないぞ」
于禁が木の上からそう云い放つと、曼成と呼ばれた兵は、より一層厳しい表情を浮かべながら、
「領土拡大の遠征ではない。賊徒が攻めてくるのだ。それを防ぐための戦いよ」
「ほう。李乾の大親分は数千の食客を養っている。まあ、俺もそのひとりだが……賊徒ごときに遅れをとる李家ではあるまい」
「文則は山にこもっていて他人と話をしないからな。知らないのだろうが、
隣の青州から賊徒の大軍がこの兗州の地に攻め込んできている」
「青州から?また随分と遠くから遠征してくるものだな。
この兗州を敵にするということは、我が師である済北の相、鮑信様や、先日十万の黒山賊を成敗した東郡の太守、
曹操、そして兗州の牧である劉岱様らを敵に回すこと。賊徒ごときに到底勝ち目はあるまい」