去勢された男性の使用人である宦官(かんがん)は、皇帝に近い為に様々な権力を得て、後漢を滅ぼす原因を造ったというのが三国志演義のストーリーです。
しかし、後漢が滅んだ後も、例えば、蜀では宦官の黄皓(こうこう)がのさばり、蜀滅亡の要因の一つになりますよね?
「あれだけ宦官で苦労したんだから、宦官なんか廃止すればいいのに」
三国志の初心者の方は、そう疑問を持つそうです。そこで、今回は簡単に、宦官がどうして滅びなかったか?を解説しましょう。
この記事の目次
宦官が滅びない理由1 後宮を維持するのに必要だった
皇帝の宮殿の一番奥には、中国全土から集められた美女が暮らす、後宮(こうきゅう)というハーレムがありました。その美女達は、使用人を含めると3000名という数になります。彼女達は、基本後宮から出られませんから、生活のすべてを後宮で営まないといけません。
そこでは、食事の世話、水の世話、トイレ、寝室、伝言の依頼など3000名分の沢山の用事が発生します。それらの雑用は女性の使用人で出来る事もありますが、中には重労働もあり、どうしても男の手が必要な事もあります。
ですが、美女達の中で健康な男性を働かせたら、どんな間違いが起きるか分かったものではありません。そこで、去勢して生殖能力を奪った宦官に男の仕事を代行させたのです。つまり、後宮を維持するのに宦官は必要不可欠だったのです。
宦官が滅びない理由2 皇帝の相談相手として必要だった
宮殿の外の目線から見れば、害毒にしか見えない宦官も、皇帝にとっては、気を許して話す事が出来る友達でした。
実際、官職の売買を率先して行い、後漢王朝にトドメを刺した、ボンクラ皇帝、霊帝(れいてい)は、お気に入りの宦官集団、十常侍(じゅうじょうじ)を寵愛していて、「自分の父母とも思う」とまで言っています。
実際、宦官は自分が仕えた皇帝一代限りの存在で、よほどの世渡り上手でない限り、次の皇帝の即位では、別の宦官が寵愛される事になります。だから、自分達が寄生している皇帝の身の安全と自分達の保身の為には手段を選ばないで全力を尽くします。事実、宦官のこの性質を利用して、外戚勢力から権力を奪い返した桓帝(かんてい)のような皇帝もいるので、他はともかく皇帝にとっては、宦官は無くてはならない存在だったようです。
宦官が滅びない理由3 皇帝専制国には宦官が不可欠だった
実は宦官は、中国ばかりではありません。古代のエジプトや、中近東のオスマン帝国、李氏朝鮮にまで、宦官という存在はいました。これらの国に共通するのは、巨大な権力を有した皇帝や、国王が、血の正統性を理由に世襲制で子々孫々国を支配しているという国家体制です。
この制度は、何よりも、皇帝或いは国王の血をわけた子孫なくして、国を存続させていく事は出来ません。なので、一人でも多く、皇帝は自分の血をわけた王子や王女を、沢山の美女に産ませる必要がありました。その為には、美女を閉じ込めた皇帝しか入れない後宮を造る必要があり、その後宮を維持する為には、絶対に宦官が必要だったのです。
宦官が滅びない理由4 宦官志望者が大勢いた
初期の宦官は、数が足りないので、刑罰として宮刑を造り、死を免れさせるかわりに去勢手術を受けさせて、なかば強制的に、宦官を量産していました。こうして、宦官にされた人物には、史記を書いた司馬遷(しばせん)がいます。
しかし、宦官になる事で、一代限りとは言え、この世の贅沢を極める可能性があるという事が分ると、自ら去勢して宦官を志望する貧しい男達が登場します。清の時代の末期の事、宦官を新しく二千名募集したところ、貧しい農民の男達が殺到して、定員オーバーした事があります。
しかし、すでに去勢してしまった男達は、今更、宦官になれないと言われても途方に暮れるしかないので、宮廷では、急きょ、定員を増やして、雇いいれるという有様でした。宦官には需要と供給が常にあったという事も、宦官が3000年という歴史を生き抜いた理由なのでしょう。
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三国志ライターkawausoの補足
宦官の害は、中国歴史に登場した英傑達も認識していましたが、皇帝専制の政治体制を取る限り、これを廃止するのは不可能でした。宦官は、去勢により体が例外なくブヨブヨに太り、顔中皺だらけになるという外見上の特徴や、金銭に異常に執着する態度から、特に庶民から嫉妬と憎悪の対象にされました。
しかし、宦官の全てが全て、悪党だったわけでもなく、中には良い宦官もいたのです。興味がある方は、サモ・ハン・キンポー監督が撮った、チャイナ・フィナーレ、最後の宦官をご覧下さい。