黄皓(こうこう)は本当に悪い宦官だったの?実はあのキャラのモデルだった【HMR】

2017年11月30日


 

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さてさて、毎度お馴染み「はじ三ミステリー研究所」。

今回は劉禅に使えた宦官としてその悪名を轟かす人物、

黄皓(こうこう)にスポットを当ててみようと思います。

 

 

三国志演義においては、

劉禅(りゅうぜん)を惑わし蜀漢滅亡の元凶となった佞臣として、

すっかり悪役の印象の強い黄皓ですが、

果たして、史実においても彼は演義に描かれているような

悪どい人物だったのでしょうか?

 

実は、ほんのちょっと視点を変えて見ると、

黄皓の意外な姿を垣間見ることができます。

果たして、黄皓の隠された正体とは……?

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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うわ、こいつ最悪!! 巫女を信じて国政をたぶらかした佞臣・黄皓

 

三国志演義では、黄皓の名前は第112回

「寿春を救って于詮、節に死し 長城を取って伯約、兵を鏖とす」

で初登場します。

 

まだ諸葛孔明が存命していた頃に、黄皓は私腹を肥やす佞臣として

物語に登場、孔明の死後は姜維の北伐を度々邪魔しては、

敵国である魏から賂を受け取るという小悪党ぶりを発揮します。

 

北伐の前線の状況が危うくなると、黄皓は怪しい巫女を使って

鬼神に占いを立て、まだ前線は崩壊しないという占いの結果を信じこみ。

姜維から届いた落城の報告などを隠蔽し、最終的には蜀の滅亡の

原因を作ってしまいます。

 

成都を攻略した鄧艾(とうがい)は黄皓をを処刑しようと

しますが、黄皓は金銀財宝を彼の部下に金銀財宝をばら撒き。

罪を逃れようとします。

 

しかし、黄皓の悪どさを看破していた司馬昭が黄皓を捕縛し、

五体を切り刻む「肉刑」という凄惨な刑罰で彼を処刑してしまいます。

 

演義における黄皓は、劉禅をたぶらかし、その寵愛を背景に

辣腕を振るって国政を意のままとし、私腹を肥やした

まさに亡国の佞臣として描かれているのです。

 

 



正史にもその悪評を書かれた黄皓(こうこう)。しかしその実態は……?

 

陳寿による正史「三国志」では、

黄皓の名前は諸葛孔明死後に登場します。

身分卑しい出身の宦官であった黄皓は、劉禅に気に入られて

引き立てられましたが、諸葛孔明の命を受けて劉禅のお目付け役で

あった董允(とういん)がこれを厳しく諌めたため、

黄皓は宮中でも低い身分のままでした。

 

しかし、董允の死後、陳祇(ちんし)がその後任となるや

黄皓は陳祇と結託、高い地位を得て国政を壟断するようになります。

そして陳祇が死ぬと、黄皓はついに蜀の実権をその手中に収めました。

 

まんまと蜀の実権を手に入れた黄皓。

そんな彼にとって目障りだったのは姜維でした。

黄皓は諸葛孔明の息子で反姜維派だった諸葛瞻や、同じく反姜維派の

董厥(とうけつ)と結託、姜維を追放しようとします。

 

姜維は劉禅に黄皓の専横を訴え処刑してほしいと進言しますが、

劉禅は彼の忠言を聞き入れませんでした。

この後、姜維は成都へ帰還できなくなり、北伐の戦線の状況は悪化します。

 

黄皓は他にも、気に入らない人物のことを劉禅に讒言し、

多くの人物が地位を失い、左遷されるハメになりました。

この中には、後に正史『三国志』の編纂を行う陳寿も含まれていたのです。

 

魏軍の攻勢におされた姜維は成都に援軍要請を出しますが

占いの結果「まだ大丈夫」と考えた黄皓は姜維の献策を

採用しないよう進言。

結局、前線は崩壊し成都はあっけなく陥落してしまいます。

 

演義と同様、鄧艾は黄皓の悪評を聞き知って、

彼を処刑しようとしますが、

史実では司馬昭が登場するヒマもなく、

黄皓は鄧艾の部下に対する賄賂作戦で何を逃れ、

いずこかに姿を消してしまいます。

 

以降、黄皓がどうなったか、史実には記録がありません。

 

 

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でも、黄皓ってそんなに悪人だったの? 正史の2つの疑問点

 

とまあ、正史と演義、どっちを見てもいいところなしの

我らが黄皓さんでありますが……。

 

実は、正史においては董允の死後、蜀は更に17年に

わたって国を維持しているのです。

 

もし、黄皓があの董卓(とうたく)のように、宮中で本当にやりたいほうだい

やらかしていたのなら、あの北伐末期の情勢下で、

蜀という国がコレほど維持しえたでしょうか?

 

実は、史実に書かれた黄皓の悪行には2つの疑問点があるのです。

 

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

 

疑問点その1。姜維と敵対したのは黄皓だけじゃなかった。

 

姜維は北伐に入れ込むあまり、国政を顧みず、そのために

政治中枢にあった多くの人物から怒りを買っていました。

また、もともと姜維は魏の人間でもあります。

いざとなったら蜀を裏切る可能性だって考えられていたでしょう。

成都における反姜維の動きは、そうした状況の当然の帰結とも言えます。

 

黄皓が姜維を排除しようとした時、諸葛瞻や董厥も、

彼の動きに同調しています。

蜀の滅亡の大きな要因となった前線の弱体化を招いたのは、

決して黄皓ひとりの責任に帰するものではないでしょう。

 

 

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疑問点その2。陳寿は黄皓を憎んでいた?

 

黄皓は宮中の気に入らない相手に関する讒言を

劉禅に繰り返し、結果多くの人材が左遷の憂き目にあっています。

 

その中には先にも記した通り、

後に『三国志』の編纂を手がける陳寿(ちんじゅ)も名を連ねています。

 

宦官として国政を壟断し続けた黄皓

そしてその黄皓によって左遷の憂き目にあった陳寿

彼が『三国志』を編纂するにあたって、

黄皓に対して完全に平等な視点から記述しえたと言えるのか、

いささか疑問であることは否めません。

 

 

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なんで劉禅は黄皓なんかが気に入ったの?

 

とはいえ、私腹を肥やし、気に入らない者は

左遷に追い込んで宮中から追放するなど、

黄皓が典型的な「小悪党」であったことは間違いなさそうです。

 

だとすると気になるのは……なんで劉禅は黄皓のことが

気に入ったのでしょうか?

 

※CAUTION!!

 

ここからは完全に筆者の勝手な想像(妄想)の話です。

そのことをどうかご留意の上、生暖かい目でお読み戴けますよう。

 

 

黄皓の出世の原因は、厳しすぎた董允のせいだった?

 

董允という人物は、諸葛孔明が劉禅に上奏した「出師の表」において

費禕(ひい)や郭攸之(かくゆうし)と並び、国政や宮中のことを

任せるに足るとしたほどの人物です。

 

 

国難の時代、董允は主君である劉禅に、厳しく当たりました。

劉禅は「お嫁さんがいっぱいほしい!!」と、常々後宮の増員を

望んでいましたが、董允は「あなたにはもう十分お相手が

いるではないですか」と、彼の要望を突っぱね、後宮の拡大に

反対を続けていました。

 

また、劉禅が黄皓を重用しようとすると、

董允は厳しくそれを諌めており、結果黄皓は董允が死ぬまでは

出世する緒を見出すことができませんでした。

 

劉禅はなにかと口やかましい董允のことを疎ましく思ってましたが、

彼の言い分に逆らうこともできずに萎縮してしまいます。

 

董允の死後、劉禅が黄皓を出世させたのも、

董允という「目の上のたんこぶ」が取れたことで、

劉禅がハメを外した結果と言えるかもしれません。

 

あるいは、董允がもう少し、劉禅の気持ちに配慮していれば

彼が後に黄皓をここまで重用したことはなかったかもしれません。

 

 

黄皓はお世辞の上手い小悪党だった?

 

劉備の子として生を受けた劉禅

その青春時代は、まさに戦乱の中にありました。

 

自身の拠点を持っていなかった劉備が、

天下三分の計」を実現するべく、荊州から益州を攻略し

劉禅もそれに伴い、居を転々と移していくことになります。

 

 

劉禅の周囲には、関羽や張飛のような、

ヤクザ上がりのような強面の武将ばかり。

その上、わずか17歳で父を失うと、

蜀の皇帝の地位に据えられ、

孔明を始め、費禕や董允といった厳しく彼を監視する

目の中で、息を抜く間もない日々が続きました

 

ちょっとハメを外したくても、お目付け役の

董允は首を振ってくれません。

おそらく劉禅の中には、思い通りに生きられない

ことへのフラストレーションがたまっていきました。

 

そんな時、彼の前に現れたのが黄皓です。

黄皓はきっと口先三寸、劉禅に対しておもねり、

宦官らしくおべんちゃらのかぎりを尽くしたのではないでしょうか?

 

先君の偉大さと、残された使命という重い荷物。

そして、伝説的な武将や天才的軍師の厳しい視線の中で

凡人としてのコンプレックスを抱えて鬱々と過ごしていた

劉禅にとっては、黄皓におだてあげられるのはさぞ気持ちが

よかったに違いありません。

 

黄皓を重用した劉禅が置かれていた立場を考えると、

ふと、そんな想像をしてしまうのは、果たして筆者だけでしょうか?

 

まあ、前線からの報告を握りつぶしてしまったり、

いわば私怨で有能な人材を左遷に追い込んだりと、

黄皓がろくでもない人物であったことは間違いありません。

 

しかし、演義に描かれたような「肉刑」で惨殺されねばならないほど、

極悪人であったとも思えません。

 

やはり、「演義」における劉禅が過剰なほど低評価であるのと

同じ意味で、黄皓の評価も貶められていると見るべき

ではないでしょうか?

 

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黄皓は三国時代のボヤッ◯ーだった?

 

口先の上手さで上役に取り入り、

おだてあげて出世する。

そんな黄皓の姿を想像する時、

ある有名なアニメのキャラクターを想像せずにはいられません。

 

それは、今なお最新シリーズ「タイムボカン 逆襲の三悪人」も

放送中のギャグアニメ「タイムボカン」シリーズ、

その人気キャラクター「三悪」の一人である「ボヤッ◯ー」です。

 

女リーダーであるドロンジョだけではなく、

時にはテレビの前の視聴者に対しても、

独特のオネエ口調混じりのセリフで媚を売り、

人気キャラクターとなった「ボヤッ◯ー」

黄皓にはどこか、そんなキャラの面影があるように思えるのです。

 

 

黄皓(こうこう)は本当に悪い宦官だった?のまとめ

 

正史『三国志』では、蜀陥落以後、どうなったか

その記述の残されていない黄皓ですが……。

 

蜀滅亡後、その身柄を洛陽に移され、

後に先祖代々の地でもある辺境の幽州に送られた劉禅。

その目の前に、あるとき突然、見覚えのある人物が現れます。

 

「おお、そちは黄皓ではないか!!」

「劉禅さまぁ、お探しいたしました」

「よく鄧艾に処刑ざれずに生き残ったな」

「もォ、劉禅さまのイ・ケ・ズ !!」

 

……なんてことが、もしかするとあったりなかったり?

 

ではまた、お会いいたしましょう。再見!!

 

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石川克世

石川克世

三国志にハマったのは、高校時代に吉川英治の小説を読んだことがきっかけでした。最初のうちは蜀(特に関羽雲長)のファンでしたが、次第に曹操孟徳に入れ込むように。 三国志ばかりではなく、春秋戦国時代に興味を持って海音寺潮五郎の小説『孫子』を読んだり、 兵法書(『孫子』や『六韜』)や諸子百家(老荘の思想)などにも無節操に手を出しました。 好きな歴史人物: 曹操孟徳 織田信長 何か一言: 温故知新。 過去を知ることは、個人や国家の別なく、 現在を知り、そして未来を知ることであると思います。

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