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二世だって優秀さ!魏皇帝の妻・甄氏(しんし)の壮絶な人生と向き合って果てた生涯に心が震える

2016年9月16日


 

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手柄を立てる呂範

 

「二世議員はたいしたことない」とか

「二世タレントはおもしろくない」

等という批判を耳にする方も多いでしょう。

もちろん、二世議員でも頑張っている人や、

二世タレントでも自分の身一つの力で活躍している方も多いでしょう。

でも、そうでもない人がいるせいか、そう言った批判をされてしまうこともあります。

 

曹操

 

三国時代では、様々な英雄とその子供達がいました。

彼らは十人十色で、優れた者もいれば、そうでは無い凡人かそれ未満の者もいたでしょう。

今回ピックアップしたいのは、君主や武将と言った英雄でなく、“エリート”の子供です。

要するに、「良いところのお坊ちゃんお嬢ちゃんってどんなだったの?」というテーマとなります。

その中でも、今回は曹丕(そうひ)の妻、甄氏(しんし)について取り上げたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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悲劇のヒロイン、甄氏

李姫

 

甄氏(しんし)は曹丕(そうひ)の妻で、かなりの美貌の持ち主として知られています。

さて彼女は、初めは袁紹(えんしょう)の次男である袁熙(えんき)の妻でした。

しかし、曹操(そうそう)が冀州を攻めとると、

曹操(そうそう)は袁紹(えんしょう)の屋敷の前に門番を置き、屋敷を見張らせました。

これは、曹操(そうそう)がこの時点で甄氏(しんし)に目をつけていたためだと考えられます。

ところが、曹操(そうそう)の三男、曹丕(そうひ)は無理やり押し入り、

屋敷にいた甄氏(しんし)と袁紹(えんしょう)の妻の劉氏(りゅうし)を見つけました。

この時、曹丕(そうひ)は甄氏(しんし)に一目惚れしてしまい、妻に迎えたいと願います。

その後、無断で屋敷に入った曹丕(そうひ)を曹操(そうそう)は罰しようとしたが、

結局許してしまい、曹丕(そうひ)は甄氏(しんし)を妻に迎えるのでした。

尚、この時袁熙(えんき)は生きています。

甄氏(しんし)は複雑な心中であったでしょう。

その後、当初メロメロだった曹丕(そうひ)に飽きられてしまった

甄氏(しんし)は、なんと死を賜ることとなります。

戦乱に巻き込まれた悲劇のヒロイン、

甄氏(しんし)、これが彼女の一般的なイメージだと思います。

 

幼い日の甄氏の時代

 

さて、ここからが本題ですが、幼き日の甄氏(しんし)はどのようだったのでしょうか。

「魏書 甄皇后伝」には彼女の幼き日のことも記されています。

彼女の父は県知事、つまりは公務員のエリートであり、

同時に彼女は漢代の名門の家系でもありました。

大金持ちで、何不自由ない暮らしをしていたようです。

将来的にも袁の一族に加わる訳ですが、もともと裕福な家庭で育ちました。

彼女の幼い頃というと、後漢末期の時代にあたります。

この頃、十常寺が暴政を行っている真っ最中でした。

そして、その一方でそれに抗うべく立ちあがった黄巾賊が略奪を繰り返しておりました。

乱れに乱れた世でしたが、そうした争いと血の世界など、彼女には無縁の世界のはずでした。

 

甄家の謀

劉邦 農民

 

甄氏(しんし)は当時数十歳でした。

彼女がおかれた乱世では、重税や黄巾賊のために人々は苦しんでいました。

さらに、飢饉まで起こり、人々の生活は困窮を極めていきました。

民は飢えを凌ぐため、金銀や珠玉その他宝物の類を売り払って食物を得ようとしました。

高価な金銀財宝とはいえ、命には代えられませんので、

人々は多少値は張っても食物を得ようとしました。

甄家では、穀物を大量に蓄えていたため、飢えに苦しむことはありませんでした。

それどころか、甄家では食物が余るほどあったため、民に売れるほど余裕もありました。

そこで、甄家は飢饉で希少となった食物を売り払うことで、

価値の下がった宝物を買い取るというビジネスを始めました。

 

その時、甄氏は・・・

 

幼き日の甄氏(しんし)はその様子を見ていました。

甄氏(しんし)の母「金銀や珠玉は今が買い時ね。皆食べるのに困っているから、

何が何でも食べ物を手に入れようとして、どんどん売ってくるわ。」

甄氏(しんし)「母上、今のような乱れた世の中で宝物を買い集めるのはいかがなものでございましょう。」

甄氏(しんし)の母「何を言っているの?今買わずに何時買うというのです。

まして、穀物等、売り時を逃しては、余って腐らせてしまうだけですよ。」

甄氏(しんし)「商人ならば、それが正しき道でしょう。しかし、それは我が甄家の取る振舞いでしょうか。

ことわざにも"持たぬ時に人に罪無し、玉を抱いて罪生ず"とあります。」

甄氏(しんし)の母「では、このまま余らせて腐らせてしまうというの?」

甄氏(しんし)「今、乱世のためにこの国は飢えた人々で溢れています。

穀物は親戚や隣近所の方に分け与え、恩恵を施すために用いることこそ賢明でございましょう。」

 

この時、甄氏(しんし)の母は自分たちが人々の困窮につけこんで儲けていたことを自覚しました。

幼いながら、社会の指導的な立場にある名家の振舞いを心得た甄氏(しんし)の言葉に従い、

甄家はすぐ彼女の言う通りにしました。

 

二世はダメだというけれども・・・

 

甄氏(しんし)のこのエピソードを聞くと、「二世でもできる子はできる」と思えてきますね。

「名家は人々の模範たる行いができなければならない」等と言われれば、

そうだと思いますが、なかなか気づけることではありません。

二世はダメだという方もいますが、甄家は甄氏(しんし)に指摘されるまで、

そういう考えは毛頭無かったというところですので、この件に関して言えば、

甄氏(しんし)は「親よりも優れた二世」に見えます。

 

三国志ライターFMの独り言

FM

 

甄氏(しんし)のこのエピソードは、私は結構好きです。

日本人は恵まれていますが、世界では苦境に立たされている人々が沢山います。

そうした人々がいることを自覚し、今自身が何をすべきか、と言うことを考えていきたいものですね。

別に安易に(安易とは言いませんが)、その人達のために募金するという意味では無く、

自身の立場でやるべきこと、をやることが何かに繋がっていくかもしれません。

「子が親を超える」というのは、ある意味人間にとって必要な事で、そうしていくことで人間、

というよりも人類が日々進歩するというものです。

三国時代に数々の偉人がいますが、そうした人々を超えていけるように努力していきたいものですね。

 

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民間伝承の三国志

 

 

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三国志は、大昔の出来事ですが、物語をいろいろな視点や切り口で見ていくと、新しくて面白い発見があるのが好きです。 人物像や対人関係、出来事、時代背景、逸話等々、古い話とはいえ、学ぶべきところはたくさんあります。 埃をかぶせておくにはもったいない、賢人たちの誇りがあります。

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